ルイス・ガレー演出「マネリエス」と「メンタルアクティヴィティ」を観て(KYOTO EXPERIMENT、京都芸術センターにて)

コロンビア人のルイス・ガレーの「マリエネス」(この語は「生まれる、誕生」を意味すると説明されている)を10月4日に観ることができた。暗闇の中から浮かび上がってくるのは左右対称に腕を自分の身体の両脇に丸く曲げた女性であり、それを次第に知覚できないほどの微小な動きであげていく動作で始まった。左右対称の動きはダンスでは珍しいと思って見ていると次第に動きに速度を加えていくと同時に左右対称以外の動きを加えていく。

「言語化された身体」と説明されたものがどういうものか考えた。ダンスの振付というものは再現可能性を目差しているため一つ一つの動きが極めて意識的なのは当たり前なのだが、これは極端で、観ていてノートにその構成が記述できるかのような印象を持たせてしまうくらい正確に動きが造られているのが分かる。

普通そうしたダンスは目が慣れると退屈してくるのだが、そうならないのはなぜだろう。

全体の3分の2くらいが過ぎたころだったろうか、部屋の隅に行ったと思ったら下着を脱ぎ始めた。着替えるのかと思ったら全裸のまま踊り出した。こちらが目をそむける間もなく再び踊り始めるが今度は直線というより曲線的な動きで、複雑な動きでありながらそれが振り付けられたものを正確に再現しているのだと分かるのは、静止した瞬間を繋ぐ動きに迷いが感じられないからだ。

終わってみれば、何の意味も求めずただ次の身体の動きに注目するという緊張だけで観ていたことに自分で驚いた。

人は「言語活動」と同じように、自己の身体を「分節」「差異化」することで空間をも「差異化」していく。「物語り性」を完全に排除した身体の動きで、その「言語学化された身体」の姿を裸にして見せてくれた。途中からダンサー(フロレンシア・ベシーノ)が全裸になったのは、偶然ではなく、思考の必然的な帰結だと思う。

ところが、11日に観た「メンタルアクティヴィティ」という作品は、全く違った種類の作品だった。所々乱雑に色を塗られた床に後ろの闇の中から次から次へとガラクタが投げ込まれる。丸太、器具や道具の破片、タイヤのチューブ、大きな石ころ、ホースの先端のようなもの、その他、書いている今思い出せないのは、殆ど形をとどめていない物体のため言葉として記憶されていないせいであるそうしたガラクタが床一杯に敷き詰められる。

その後舞台上に現れたのは男女2人ずつ計4人で瓦礫の端で、中心に向かって立つ。それからの一連の動きは奇妙で観る者を途方にくれさせた。

最初はうなだれたまま前のめりになった力を利用して直線的に歩くことを順に繰り返したかと思うと、ひとりの女性がタイヤのチューブを両手で持ちぐるぐると回す動作を執拗に繰り返す。その間他方の女性は地面に置かれた木の幹を頭で押していく。

それと前後関係は忘れたが、木の幹とホースの先のようなものを厳かに立てる動作をそれぞれ二人の男性が行る。

それぞれの動作は孤独に他の動作と共振することなく、他と無関係に行われる。動作に関係性が生まれたのは2つだけだったように記憶している。それは2人ずつ長い木の枝のようなものを顔の側面につき落ちないように立ったことと、口を鳴らしながら機械的な腕の動作を繰り返す女性に、もうひとりの女性が物体を手渡し、その動きを複雑化していったことである。しかしそれらもそれからその関係性が発展することはなかった。

観客をひやひやさせたのは、ひとりの男が人の頭ほどの大きさの石を長い紐で結び,立ったまま自分の体を回転させ、遠心力で紐が伸びて、石を回転させた場面である。紐が切れたら観客に向かってその大きな石が飛んでくるという危険性に危惧させたからである。

それぞれの動作はその意味を全く理解されないまま作品は終わった。あっけないという印象ではなく,緊張を解かれたという開放感に充たされたが、何が何だかわからず途方にくれさせられた。しかしこの作品は終わったところから人に考えさせずにはおかない。

われわれはどのようなパフォーマンスにおいても空間構成や人の動作、言動に何らかの意味を求めずにはおられない。なぜならそれらの空間や動作はそれを考え作り上げた人の意思の反映であり、「作品」であるからだ。例えば頭で木の幹を押していく動作なら、なぜ木の幹を押すのか、なぜそのとき手や道具を使わないのか、それを押していくのはどのような「意味」があるのか、と。

その当惑は宗教的な「儀式」に直面した時に感じることと同じである。その「意味」がわからない者にとっては「無意味」で当惑させられる。

しかし常日頃、自ら何かの物体に働きかけ、他人がそうするのを見ているわれわれの普通の動作にはなぜ疑問を感じないのだろう。それらは「労働」であり、経済活動の一部をなしていることが明らかだからだ。例えばパソコンに向かい、表計算をし、文章を書く行為と、頭で床の木の幹を押していく動作はどこが違うのだろう。人が自己の身体と無関係なモノに働きかけ、関係性を築き上げていると自分で思っていても、まったく別の視点から見ればそれは「無意味」であり、理解不能の行為であることは十分ありうる。

われわれが「文明」と呼び、その反映であると思っている、この社会、この都市も、この舞台のような瓦礫の山で蠢く人々とどこか違っているだろう? あたかもこの間の大震災後の瓦礫の山、崩壊した原子力発電所を前にした人々の途方にくれた様をも想像させる。そうした、「人」とモノとの無関係さ、「無意味さ」を改めて認識させてくれた作品だと思う。(2014年10月15日。番場 寛)

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