まるで苦行のような性の遍歴―ラース・フォン・トリアー監督―「ニンフォマニアックvol.1,vol2」を観て―

ぼくらは食べ物に関してはどこのフレンチがおいしいとか、どこのスイーツがおいしいとかもりあがるのに、おなじ欲望である「性」に関しては口をつぐむか、逆にこそこそと隠して笑いものにする。どちらも人間にとっては根源的なことなのにどうしてなのだろう?

ニンフォマニアックは「色情狂」と訳すらしい。つまり性的欲望が異常に強く、狂ったように性交に励んでしまう人のことだとで、それをそのままタイトルにした映画とは一体どんなものだろうという関心からだろうか?映画館(「京都シネマ」)は、それぞれ一日一回の上映だということもあるせいなのか殆ど満席で、しかも若い人から老人まで男女も交じった性と世代を超えた観客が来ていた。こんなにもこのタイトルに惹かれた人が多いのかと驚いた。

映画は顔が傷だらけになり行き倒れになっていた女性、ジョー(シャルロット・ゲンズブール)が老人、セリグマン(ステラン・スカルスガルド)に助けられ彼の家に行き、ベッドに横たわりながらそうなったいきさつを幼少期の体験から話すことから始まった。

幼い頃に偶然、性の快感を覚えるところは自然に描かれていたし、そのあと高校生のときに悪友の女の子と男漁りに行く、セリグマンが、ファーフィッシング(人工の偽のエサをつけた釣り針での釣り)で魚を釣るときのテクニックと同じだと説明するところなど楽しめたが、ひとつ気になり、終わりまでどういう意味につなげたいのかと思ったのは、ジョーの初体験のときの屈辱を感じた3+5という体の前後になされた性交の数だ。

その話を聞いたセリグマンによればその数はフィボナッチ数列(黄金数)と同じであり、その数列はパルテノン神殿を初めとする美しい構築物の元となっているだけでなく、音楽家のバッハBACHのスペルの数とも関係しているという。

それぞれ独立したエピソードの集積として成り立っているこの映画全体の中でその黄金数とともに最後までジョーが遭遇するのは生涯にわたって4回、「偶然」に出会うジェローム(シャイア・ラブーフ)であり、その出会いはもはや「偶然」とは言えないものとなっている。

快楽を求めるというより、それはまるでそれこそ「苦行」のように性を求め実践するジョーの姿はフィボナッチ数列のように、ある厳格な論理に従っているようにさえ思えてくる。

分からないのはジョーは、自分が性交をするのは「欠如」ではなく「欲望」なのだと言う場面である。ぼくが知っている理論に従えば「欲望」とは何よりも「欠如」の感覚だからだ。ジョーは行為の最中に叫ぶ「わたしのすべての穴を埋めて」という言葉は肉体的な行為以上に精神の「欠如」を表している象徴的な叫びだと思う。

レズビアン、サディスト、マゾヒストなど異常だが、文学や映画ではよくある世界を主人公は経験するのだが、ありきたりにならないのはその体験を聞く老人が知的な解釈を披露してくれるからだ。しかも並ならぬ読書家である彼は童貞であるという設定で、性のあくなき探求者の話を「知」を体現した童貞の男が聴きながら注釈を加えるという設定で、二人の関係はまるで精神分析の現場における「患者」と「分析家」のような親密な関係に思えてくる。

老人の説明で感心したのは「東方教会」は苦しみの宗教であり、「西方教会」(カトリック)は生きる喜びの宗教だという説明である。

ジェロームと2度目の偶然の再会後、結婚し子どもも生まれたのに、性的には何も感じることができなくなり、下半身が傷だらけになるほど鞭で打たれることでしか快感を得ることができなくなり、そのせいで夫にも見捨てられ家庭を失うことになる。

それを観ているとなぜそこまでして、という思いになり、まるで快楽を求めているというより、苦行を行っているように見えている。鞭打ちの相手の若い男性もそれが「快感」というよりも自らの厳格な規則に従ってひたすら義務を遂行しているように見えてくる。

納得いかないのはこの映画の最後である。性依存症を治すための会の偽善性に決別した筈の彼女が最後に自ら性的欲望を捨てようとしたことである。

人間の欲望のうちもっとも深い欲望は「充たされない欲望を持ちたいというものだ」というラカンの説を信じているぼくにとってはジョーのこの決意は信じがたい。

ところでジョーを演じているシャルロットの体当たりの演技は映画史に残るであろう。もう30年以上も前に最初に彼女を観たのはフランスで観た「Effronté」という映画で、まだ十代前半だったろう。確かに年を帯びているが母親(ジェーンバーキン)譲りの美しさも可愛らしさも残っているし、年齢相応の顔が微笑んだ時、一瞬だがあの十代の少女の顔が見えた。

さらに、彼女と同じくらい存在感のあった鞭打ちの若い男性はあの幼かった「リトルダンサー」の主人公を演じた男の子の後の姿だったことに驚いた。彼の冷血でありながら品の良さと隠れた愛さえ予感させる姿が、あの男の子の成長した姿だったことに、映画の流れとは別の時間の経過の感動を覚えたのだった。(2014年12月1日。番場 寛)

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