「老い」は表現できたか?―筒井潤演出、きたまり、白神ももこ『腹は膝まで垂れ下がる』を観て(12月12日、京都芸術センターにて)― 

タイトルを見たとき一体どんなダンスなのだろうと思ったが、30才と32才の若い女性ダンサーが「老い」をテーマに踊るというものだった。タイトルは、老いると腰が曲がるという意味なのだろうか?

彼女らはそれぞれの名前の頭文字のアルファベットを背中に入れた体操着を模したようなピンクと水色を基調とした服装で現れたが、二人とも老人、特に老いた女性がよく持っているような荷物が入る小さなカートを押している。

そして二人で踊るシーンがあるのだが、スクリーンに映し出される説明によれば、一方が振付を思い出せない場面もあることで踊るのだが、二人とも本当に踊りがうますぎるのだ。よく見たり聞いたりするような、若い人におもりをつけたり、一方の靴の底を高くし、杖をつき、よく見えないように黄色のゴーグルをかけることを、きたまりさんがして、白神ももこさんと並んで踊ることで、若いときに「できたこと」が「できなくなる」ことを目で見えるように観客に示すのだが、表現としては中途半端なような気がした。

二人とも体が動きすぎるのだ。若い外見と若い動きのまま「老人」を演じても浮かび上がってくるのはむしろ逆の「若さ」「可愛らしさ」であって、それが狙いならそれで良いのだろうが、それを狙ったわけではあるまい。

実際、きたまりは数年前のKYOTOEXPERIMENTでki6のメンバーで踊ったとき彼女たちの母親の若い頃の服装で踊った。そのときは現在の彼女たちの時間を演じながら、同時に20年以上の歳月を隔てた母親たちの若い頃の時間をも舞台に載せることを観客の想像力を使って実現できた。

今回は、観客はよく体が動く若い二人を見ながら想像力を働かせて彼女らが演じている「老人」とはどういうものなのかを思い描く、しかしうまくいかない。

筒井潤の演出は有名人の「老い」に対する言葉と、ふたりの会話、説明をスクリーンに映し出して観客に示すことであり、「老い」ということの説明にはなっていたがダンスとしての表現になっていたかは疑問である。

たとえば白神ももこさんが道路で財布から落とした小銭を拾おうとして逆に次々と落としてしまい、車の警笛を鳴らされる場面は演劇的にはよく作られていたと思うが、踊りの場面そのもので「老い」がうまく表現できていたようには思えなかった。

では、「老人」はどうすれば表現できるのだろうか? 高速度撮影したフイルムを回すようなゆっくりとした動きで、それでいて鑑賞に耐えるダンスになりえている、制御され、分節された動きを創り出せたらそれは感動ものだろう。今は映像でしか見られない土方巽の動きはそうした動きではなかったかと思う。

二人のダンスを見ながらなぜか最近見た映画、「ウイークエンド・イン・パリ」のワンシーンを思い出した。それは映画の一番最後のシーンで、あれこれあってもこれからも二人で生きていくしかないということを確認した老夫婦と、彼らの友人の老人の男性がジュークボックスの音楽に合わせて3人揃って踊るシーンである。

それはJ-L.ゴダールの『はなればなれに』の最後に帽子を被ったアンナ・カリーナをはさんだ男二人と踊るシーンを模したシーンである。顔や体つきに「老い」が滲み出ているだけでなく、緩慢な3人の動きがはっとするほどかっこいいのだ。それは、彼らを見ながら同時に『はなればなれに』の3人を思い描いているからなのだろうが、あれを見ていると「老い」も悪くないと思ってしまった。「老い」とはそれまで生きてきた時間の集積であるとしたなら、人はみな「老い」を自らの内に作りながら生きているのだ。

ただ、今回のダンス作品がとても楽しく面白いものであったことに間違いない。人は多分、現在とは違う時間を生きている自分を想像することなしには「現在」を充実して生きることはできないのだろう。(2014年12月15日。番場 寛)

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