突然浮かんだ曲、「私たちの望むものは・・・」

今は入試の仕事と学生のレポートの採点の最中で頭がぼうっとしてうまく回らない。軽い鬱のような気分は2年生から指導していた卒論の口述試験をようやく終え成績をつけた後の「卒論指導終了ブルー」とでも名付けたくなるような感じのせいかもしれない。

2年生や3年生のときから指導した学生たちは、本当によく成長したものだと改めて思う。毎回の授業で発表し、他人の意見を聞くことで深化させたり、テーマを変えながら、より自分にとって本当のテーマを見つけていった過程を振り返ると、どの学生の論文も見事に思えてくる。

しかしこの鬱にも似た気分はそれだけのせいではない。最近世界や日本で起きた悲惨な事件のせいでもある。嘆き、怒り、悲しみ…様々な感情の整理ができていない。いろいろな人が様々なことを印刷物やネットに書いている。

何か書きたくなる気持ちをためらわせるのは、1月29日に発表された高橋源一郎によって引用されたスーザン・ソンタグの言葉だ。読んだ新聞が見当たらないのでツイッターに引用されたものを探すと次のように書かれている。

「意見というものの困った点は、私たちはそれに固着しがちだという点である。・・・・・何ごとであれ、そこにはつねに、それ以上のことがある。どんな出来事でも、ほかにも出来事がある」

ここの「出来事」という言葉を「意見」と置き変えても成り立つだろう。ある「意見」を声高らかに述べたとたん、思考停止に陥り、別の考えの可能性を否定してしまうことになってしまうことへの危惧は常にあると思う。

ところで、実はある授業の最後(1月22日)になぜか、岡林信康の「私たちの望むものは」という曲を流してしまった。まだ学生たちが生まれる前につくられた曲で自分がこれを学生の頃、高橋和巳原作の『日本の悪霊』という映画の中で岡林自身が歌っているのを見て感激したときの記憶が蘇ったからだ。

それは「哲学」と称して「考える」ことの大切さを3歳から5歳児に教える幼稚園を映した、フランスのドキュメンタリー映画『小さな哲学者たち』(2010年)の冒頭に流れるフランスと世界の現状を伝えるニュースについて説明した授業の後で浮かんだことだ。

そのニュースではネットに何時間も費やす若者がいることを知らせた後に、空爆で千人もの死者が出たこと、郊外で移民の若者への暴力が起こったこと等を伝えるものだった。つまりこのような悲惨が繰り返されるのは人が「考えるréfléchir」ことを欠いているからだと暗示するためだと思われた。

岡林の歌は「私たちの望むものは、生きる苦しみではなく、生きる喜びなのだ」「私たちの望むものは、あなたを殺すことではなく、あなたと生きることなのだ」と始まり、誰でもが望む数々のことが歌われるのだが、驚くのは最後にきて[私たちの望むものは生きる喜びではなく、生きる苦しみなのだ」「私たちの望むものは、あなたと生きることではなく、あなたを殺すことなのだ」と正反対の内容になることだ。

しかし直後に機関銃の連射の音がかぶさり、これは戦争のことなのだと分かる。まるで苦しむこと、人を殺すことを私たちが望んでいるかのような現状。ここにきてそれまで何度も繰り返された「今ある不幸(ふしあわせ)にとどまってはならない。まだ見ぬ幸せに今跳び立つのだ」というリフレインが強く訴えかけてくる。

今の不幸せにどうやったらとどまらないでいられるのか分からない。それでも、ただこの歌がある。
http://www.youtube.com/watch?v=3SP1uzBdGKk

(2015年2月7日。番場 寛)

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