大阪、神戸の二日間― ゴダールおよび「精神病理コロック」、その他―

2月14、15日に、神戸大学医学部付属病院を会場とした「精神病理コロック2014/2015」に参加した。その前に大阪梅田でゴダールの新作 「さらば、愛の言葉よAdieu au langage」を見てから神戸に向かった。3Dで見ることの出来る数少ない映画館が梅田にあったからだ。

これは9月にパリで一回観たのだが、英語字幕のフランス語での理解が心もとなく、日本語字幕でもう一度確認したかったからだ。席は念のため前日ネット予約して行ったのだが、客は十人にも満たないほどで驚いた。

台詞も文字として表示されるものもすべて日本語の訳がついていたが、それらが分かったからといってパリで観たときより理解が深まった訳ではなかった。

パンフレットには映画出に出てくる台詞や語りの殆どが文学作品や哲学の書物や聖書からの引用だということを示す出典が明記されているが、肝心なのはそれをゴダールが組み合わせたかったという事実だろう。

またあの張り付いたかのように見えてしまう3Dの映像の不自然さはリアルというより、別世界を描こうとしているのだということも再確認できた。

笑ってしまったのはこの映画で重要な登場人物(?)のひとつである愛犬ロクシーが自然な演技でコールデン・ドック賞を受賞したという事実だ。犬は「演技」をするのだろうか? 確かに普通の犬も教えれば「演技」のようなものはするが、犬のする「自然な演技」とは何だろう?

そんなことはさておき、ほぼ毎年参加しているのだが、今年の「精神病理コロック」は特に研究の質も扱われている症例も興味深く、どの発表にもすっかり感心させられてしまった。

最 初の清水加奈子先生の「失われた喪を巡って 狂気への接近と再生の軌跡」という発表は、母親の支配の元に入信している宗教上の理由で、父親が自殺したが普 通の喪に服することを禁じられたため、いわゆる「喪の作業」が心の中で行われず狂気へと陥ってしまった若い女性の治療の記録と考察について述べられた。

災害などで遺体が見つからないままの遺族の例に見られるように何らかの理由で「喪」が失われてしまっている人の例も出されて説明されたが、治療行為が患者に寄り添い粘り強く行われ、深い考察がなされていた。

古 橋忠晃先生の「現代の境界例にはどのような病理が位置づけられるのか」という発表は、従来、神経症と精神病の間に位置づけられていた「境界例」という病状 のあり方の位置づけは、時代の変化に伴う、個人の自律をどのように見なすかという社会的・文化的な視点の変化によってなされるということを、ひとりの患者 の臨床を例に取り明確に説明したものだった。

特別講演は、村上靖彦先生の「精神科訪問看護についての現象学的な考察」という題のもので、驚 いたのは、これは、統合失調症患者の臨床記録の説明ではなく、その患者さんに訪問看護する看護師の言説を記録し、「統合失調症の在宅支援がどのように組み 立てられているのか」ということを観察しそれについて考察した内容だったことだ。

この支援行為として村上先生が説明するのに何度も登場するキーワードが、ウィニコットのholdingという概念であった。そのholdingは患者さんの「行為」や「変化」をもたらすことへと繋がっていく過程が具体例として示された。

熊崎努先生の「心の理論と了解精神病理学」という発表は英語の引用が多く自分にはかなり理解できなかったが、人の心を理解するときにはどのようなメカニスムが働いているのかということをまるで自然科学のように説明しようとしているように思われた。

今回のコロックで発表を聞く前、自分にとって一番興味があったのは杉林稔先生の発表「精神科臨床のツーリズム化と記述の転変」であった。

最 近の精神科の疾病概念の記述のみならずその治療にあたる医師と看護師とのスタッフのチームがパッケージされているかのようにステレオタイプ化している現場 を先生は「ツーリズム化」と呼ぶ。それは「患者との様々な相互作用の中で参与観察者として特定の状況を描写する」ことを目差す精神科臨床における記述の困 難さを逃れ、「既成の雛形」を利用してしまうことで実際の臨床場面から離れてしまうことへの指摘がなされた。

ここでは紹介しきれない豊かな発表を先生は「観光」の記述のような臨床から「旅している」かのような記述という言葉で対比しまとめた。

実 は今回の発表会場で、後ろに座っていた先生から挨拶され初めて知ったのだが、そのM先生は映画館で、ぼくの一つ置いた隣りの席でゴダールの映画を観ていた というので驚いた。コロックが終わった後三宮駅まで彼と一緒に帰ったのだが、地下鉄の車内で彼に聞いた話にはさらに驚かされた。

彼によれば、東京では精神科のクリニックの「チェーン化」が起きているそうだ。患者一人あたりの診察時間は機械的にきっちりと均一に決められ、医者意外に患者のいうことを記述する専門の人がおり、すべてが機械的に行われているという。これこそ「ツーリズム化」ではないか。

し かし希望がないわけではない。発表後になされる質問や意見で思いがけなくも何度かラカンの名が出された。「他者」という概念、「主体」というのは決して自 律した自明なものではなく、その「他者」との関係においてしかあり得ないというラカン理論に親しんだ者にはなじみのことが、パッケージ化された精神科医 療に抗う行為の支えとして通底音のように流れているのだということを発見できて嬉しかった。

実は神戸といえば久しく会っていないある友人と 会いたかったが彼女はお子さんの行事やその他の用事で会えなかった。偶然目にした神戸市立博物館で開催されていた「チューリッヒ美術館展」をそれほど期待 しないで観たら、それぞれの画家の絵の枚数は少ないのだが,驚くほどの巨匠の絵が何枚もあってすっかり堪能した。また三宮駅周辺の猥雑さと博物館周辺の上 品凄烈さとの対比も面白く改めて神戸が好きになった。これは「ツアー」でなくて「旅」だったのだろう。(2015年2月17日。番場 寛)

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