世田谷文学館「岡崎京子展 戦場のガールズ・ライフ」を見て

「東京精神分析サークル」のシンポジウムに出席した翌日、3月22日のことだ。京王線の芦花公園駅を降りると若者が何人か同じ方向を歩いているので道を迷うことはなかった。入り口でやはり前と同じ疑問が浮かんだ。なぜ美術館ではなく「文学館」で漫画の展覧会が行われるのか?

世田谷文学館の入り口にて

世田谷文学館の入り口にて

 

しかし会場に入ってその意味はすぐに分かった。会場の壁のあちこちに大きく書かれた言葉はすべて岡崎の漫画やエッセイの中から抜き出されたものだが、どれも説明不要でまっすぐに心に突き刺さる言葉なのだ。最初の展示室の壁に引用されていた言葉は、「笑いは叫びに似ている」だった。カタログを買えば壁に書かれた言葉はすべて収録されているだろうと思っていたがカタログにはその一部しか載ってない。

それでここで引用する言葉はすべて彼女の言葉だが、記憶に残っているものなのでいくらかはずれているだろう。じっさいに原作を手にとって確認して欲しい。

中でも「みんな何でもどんどん忘れてゆき ただ欲望だけが変わらずあり そこを通り過ぎる 名前だけが変わっていった」という『ヘウタースケルター』の中の言葉はおそらく誰もが日常的に感じていることでありながらどうしてこんなに分かりやすい言葉で表さすことができるのだろうと思う。

展示場の壁に書かれている言葉で一番素敵で胸に響いたのは次の『ピンク』の中の台詞で、ずっと昔単行本で読んでいたのにこんな素敵な言葉を忘れていた自分が信じられない。

 

「この世では 何でも起こりうる 何でも起こりうるんだわ きっと

どんな ひどいことも どんなうつくしいことも」

彼女の作品の舞台となっている八〇年代から彼女が交通事故に遭い、執筆できなくなるまでの世界で起きたことだけでなく、以後起きた大震災や今も続いている数々の戦争という絶望を見据えた上で、その反対に起こりうるし、現に世界のどこかで確実に起きている、起きうる「美しいこと」への希望をかき立てる力をこの言葉は持っている。それがこの展覧会のタイトルの「戦場のガールズ・ライフ」の意味なのだろう。

会場に販売用に並べられている岡崎京子の単行本を見て驚いたのは、自分がかなり彼女の漫画を買って持っていたことに気づいたことだ。それでいて最後まで読み終えたのは少ない。『ピンク』以外は痛々しさというか、表面上の明るさの底に流れている暗さに怯えていたのかもしれない。

いやそうではない。彼女の描く女性たちの大きな目とか扇情的な唇とかの表情にたじろいだのだろう。漫画自体をそれほど読まない自分だが、少女漫画では高野文子と近藤ようこの作品が好きだ。特に近藤ようこの作品は、前にこのブログで書いたが、彼女の作品を読んでいるとまるで自分の心と体が女性に変わっていくような不思議な体験をする。

一方、展示されている岡崎の漫画を見ていると「ガール」とか「ガーリー」という言葉がこちらに染みこんでくるような感じがする。それは近年世界的な言葉となったKAWAIIや甘ったるい「ロリータ」というものとはどこか違った、もっと貪欲で破壊的で、それでいて痛々しい、たとえばある人が言った「十代の女の子は獣の臭いがする」という言葉を思い出させるような感じだ。

今回の展覧回は3月31日で終わってしまう。壁に書かれた彼女の言葉のすべてを今思い出せないのがとても残念だ。カタログにもそれらの多くは採録されていない。また『リバーズ・エッジ』のインスピレーションとなったウイリアム・ギブソンの詩も展示場には書かれている。行ける人は是非行って自分の目で確認して欲しい。

おそらくすべての来場者が満足して展示場の最後の部屋を出ようとしたとき出口の横の壁に書かれていた言葉は説明によると、事故後リハビリを続けている岡崎が視覚操作型のコンピューターを二年間ほどの練習の後に生み出した言葉だそうで、そこからは彼女のあの笑顔と漫画のキャラクターの顔がダブって浮かんできた。

そこにはただ

 

ありがとう、みんな。

岡崎京子

 

とだけ書かれていた。(2015年3月24日。番場 寛)

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