高橋源一郎著『13日間で「名文」を書けるようになる方法』(朝日新聞出版)を読んで

2009年9月に発売された直後に購入してそのまま本棚に飾っておいたものを先日初めて開いたのは、偶然ツイッターで見つけたスーザン・ソンタグの遺書とも言える文章が高橋による表記の著書に引用されていることを知ったからだ。

読み始めて自分はなんて愚かだったのだろう、なぜ数頁でもこの本を読んでおかなかったのだろうと悔やんだ。買ったもののすぐ読もうとしなかった理由は明らかだ。「・・・時間で英語が話せる」「わずか・・・日間でお金持ちになる」「・・・日間でやせる」・・・等、それが嘘だと疑いながらも、信じられないくらいの短時間で様々な欲望を実現してくれるという言葉で人を惹きつける、本屋に数多く並べられている本と同じ狙いのタイトルだと思ったからだ。

言葉はそれを使う人間の生きた経験の積み重ねの表れるものであり、そんなに短期間でうまくなる筈はないと思いながらも、それでも自分の知らない上達の方法があるのではないかと思ってしまうのは自然であろう。

驚いた。これは高橋が自身の13回の大学の授業で学生たちに説明し、学生たちが書いたことの生き生きとした記録である。

映画には普通の演出した物語の作品があるとともに、現実を忠実に写し取り、編集した上で再現したドキュメンタリーがあるが、これは「文章を書くことについての授業のドキュメンタリー」とも言える。

優れたドキュメンタリー映画がそうであるようにこの授業の記録は実際に教室で語られ、学生たちによって書かれた文章である筈なのに、いつの間にか優れた文学作品を読んでいるかのように感動していた。

たとえば7回目の授業では、「日本国憲法前文」とフランツ・カフカの『変身』を読んで感想を述べることが課題として出され、それについて学生の感想が発表された後、高橋から今度は架空の国の「憲法」の序文を創作するよう課題が出され、次回の授業はその発表となる。

5回目の授業での「ラヴレターを書く」という課題には驚かないとしてもこれには驚かされる。「憲法」というものが「公的」な文章であり、『変身』は個人的な体験の極度のものなのに、その共通点を探せと指示された学生たちの戸惑いがとてもリアルであり、その体験をさせた上での高橋のコメントが見事である。

高橋は文章を「うまく」かけるようになるためには、文章の構造を「読む」ことができることが必要であり、そのためには文章を自分で「書く」必要があるという両方の行為の補完性を説明した上で、『変身』についての独自の「読み」を展開する。

彼によれば『変身』の虫になってしまったグレゴール・ザムザの物語は、「自分以外のなにかになってしまった人間の物語」であり、「グレゴールが『虫』になったことを受け入れた時、世界中の誰からも理解されなくてもかまわないと思えた時、グレゴールの中で、悲劇は反転したのです。グレゴールは世界の無理解と引き替えに、世界を理解することができたのです」と説明する。

ここに来て授業の冒頭でなぜスーザン・ソンタグの遺書とも言える文章を引用したのかが明らかにされる。それは「自分以外の誰かになってみる」というやり方がなぜ必要なのかという理由になるからだ。高橋の言い換えるソンタグの意見によれば、「人間というものは、放っておくと、自分のことしか考えない、あるいは、考えられないから」であり「狭い世界に閉じ込められたままになってしまう」からである。

それは現在も続いているヘイトスピーチや性的マイノリティーの人たちに対する差別やもっと広い普通の社会にも見られる女性への差別などにも言い及ぶ。

マイノリティーの立場に置かれた人たちのことを高橋は「左きき」の人たちにたとえ、「書く」ことに必要である以上に生きていく上で必要なこととして、「右きき」に例えられる側のものも「左きき」の他人になって書くこと、言い換えれば想像力を働かせることが必要だと説く。

それをさらに推し進めた「靖国神社に集う英霊たちにことばをしゃべらせてみること」という課題に答えた学生たちの書いた創作とそれに対する高橋のコメントも見事である。

普通は不可能に近いことだが時に必要になるのは、想像力を働かせて「死者の横にたとうとすること」であると説明する。

恐らくこの本の読者にとって一番ストレートに感動する授業をあげるとすれば、高橋は私的な事情で休講せざるを得なかった回の次の授業であろう。

高橋が休講したのは、2歳9カ月の息子が急病で救急車で運ばれ、入院したからだ。2度目の入院の時、息子は意識を失い生死をさ迷う。彼の言葉に反応せず、「向こう側」に行ってしまったかのように見えた息子が集中治療室を出た後、言葉を失っていることを発見する。大脳は保たれたものの小脳が傷ついたため言葉を発することができなかったのだ。

どうしてよいかわからないまま息子をこちら側の世界に連れ戻すために高橋がしたことは息子が好きだった絵本を彼の枕元で朗読することだった。気持を込めた必死の絵本の朗読のおかげで、手足を動かせず、言葉も発せられないままの息子に笑顔がもれる瞬間の語らいを教室で聞いている学生たちの姿が目に浮かぶようだ。

これくらい「ことば」の力を思い知らされる描写はまれであろう。高橋によれば「ことば」はそれにより遠くに人を運ぶ力があるものなのだ。高橋が学生たちの書いたものを一字一句直さないで授業で全員に披露するのも上に述べた教えを最大限に伝えるためだと思われる。

高橋のこの著作は最近文庫本になったこともあり、自分の学生たちや知人にも薦めている。これを読んでいるあなたも読んでほしい。これは教室を舞台にした「ドキュメンタリー小説」であり「言葉についての思考実験」の書でもあるのだ。

この大谷大学でも「文藝塾」というものが設置されたが、それが、高橋の教室のような、「表現する喜びとその可能性」を全面的に学べるものになってもらうことを願わずにおれない。(2015年4月9日。番場 寛)

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