ある人を好きだという時、その人の何を好きなのだろう? ― アリー・ポジン監督「フェイス・オブ・ラヴ」を観て-

普段から自分は身近にいる人(同僚、学生、近親者)の中のある人が、有名なタレントや俳優と似ていると思ってしまう度合いが他人より、強いのかもしれない。

たとえばある学生がアイドル歌手に似ていると思うとき疑問に思うのは、彼女がある歌手に似ているのか、その歌手が彼女に似ていると思うのかどちらなのだろうということだ。

「また恋愛の徴候の一つは彼女に似た顔を発見することに極度に敏感になることである」と言ったのは芥川龍之介だが、この映画は夫を亡くして5年経っても夫のことを忘れられず困難な生活を送っている主人公に、ある日顔だけでなく何から何までそっくりの男が現れるという映画である。

すぐに今までに見た他の映画が思い浮かんだ。古典的な作品ではヒッチコックの「めまい」である。過去に愛した女性とそっくりな女性に出会うが、実はそれは本当に亡くなった筈のその同じ女の変装した姿であったという設定である。もう一つの映画の方が今回のテーマに近いが、フランソワ・オゾンの「まぼろし」という作品である。

「まぼろし」では同じく海辺で夫を亡くした中年の女性(シャーロット・ランプリング)が、夫を亡くしたことを否認しているためか、彼女にだけ他の登場人物には見えない夫の姿が見え、彼が現実に存在しているかのようにふるまうのだった。

特にオゾンの作品と共通するのはフロイトの言う「喪の作業」がテーマとなっていることだ。「喪の作業」とは愛する対象を失ったときそれを自己のうちに取り込み、愛する対象に対する愛と、自分が置き去りにされたことからくる罪悪感や憎しみを自己のうちで反芻することで徐々に回復に向かっていくことを示す。

この「フェイス・オブ・ラブ」もそういったテーマに忠実に進行するが、観ているうちにそれ以上の問題を投げかけていることに気づく。それはある人を好きだというとき、その相手の顔が象徴的な役割を果たすが、それでもその人の何が好きなのかと問われれば困惑するのではないかということである。勿論その人のすべてが好きだという答えもあるのだろうが、それらの何が好きなのかという問いに対する答えは難しい。

この映画でそれが少し分かった気になった。それは、失った人とは、その人とともに生きた自分の時間の集積を愛しているのだということだ。顔立ちや体つき、声や仕草など何から何までそっくりだとしても、相手とともに生きた自分の時間のかけがえのなさは取り替えることはできない。

それはこの映画の出会った新たな男もまた別れた妻に対する「喪の作業」にいることで重複される。この映画が感動的なのは、その失った夫と完全にうり二つの男を目の前にすることで、その二人で過ごした時間のかけがえのなさを最大限に表したことだろう。(2015年4月25日。番場 寛)

 

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