何十年振りかの同級会に参加して思ったこと―差異と反復(番外編)

学会発表がいよいよ来週に迫っているのに作業が思うように進まない。わずか数分の動画をパワーポイントに貼りつけるのに数日もかかってしまっただけでなく発表原稿の執筆も進まない。この頁を覗いてくれている方には、更新してなくて本当にすまないと思う。 発表テーマは、タデウシュ・カントルというポーランドの劇の演出家の作品における「反復」についてである。ずっと「反復」について考えている中こんなことを経験した。

もう半月ほど経ってしまったが、大学の同級会を東京で初めて開いたのだ。50名以上いたクラスのうち、参加したのは自分を入れて9名だったが、驚いたことが二つある。それは変わっていたことではなく、何十年も経っているのに変わらない人がいたことだ。勿論、顔や髪の変化には年齢が刻まれているのだが、冗談や、こちらへのからかい方などはまったく同じで、このまま机に並んでもいいくらいだと思ったほどだ。

もう一つ驚いたのは、反対に在学時には殆ど気に止まらなかったというか、覚えていなかった人が信じられないくらい生き生きと輝いていたことだ。彼女は卒業し、働いた後別の大学に社会人として入学し、研究した知識を今も生かしているという。

ショックだったのは、お亡くなりになった同級生もいたし、若年性認知症になって入院している同級生もいたことだ。

ひとつだけ参加してよかったなあと実感したことがある。それは、自分は本を読み、映画と演劇を浴びるように観る以外はアルバイトと女の子の後を追いかけた記憶しかないと思っていたのに、話しているうちに意外に同級生たちとの交流もしていたことを思い出したことだ。

あの頃は新宿駅の構内で「私の詩集」などと書いたカードを掲げ、立ったまま詩集をうっている女の子がいた。それをまねクラスでガリ版の印刷機を買い、ぼくも自分の作品集を印刷し、クラス内で売ったことや、自分だったら絶対行かない洋風の飲み屋に初めてつれていってもらったことなど、次から次へと忘れていた思い出が蘇った。

僕らが学んだ校舎は、現在はそこには残っていず、会の後みんなでその跡地を巡礼のように歩いて懐かしがった。そのクラスである日のコンパをやったカフェも言われて思いだした。

分かれてホテルに帰った後ポケットに入っていたチラシをみたら、会の前にお茶の水駅前でもらった、6月15日の反戦のための集会をよびかけるチラシであった。そのチラシは何十年前とまったく変わっていない内容のものだった。思わず涙が出そうになった。

どうして同級会に人は行くのだろう? 変わったことを確認するために? それとも変わらないものを確認するために? 僕の学生たちの学生時代も本当に幸せなものであってほしいと思う。(2015年6月18日。番場 寛)

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