最も見たくはないが、どうしても見なくてはならないと思っていたアウシュヴィッツで経験した写真の力

ずっと昔、30年以上も昔、初めてフランスに留学したときのことだ。ブザンソンの会話学校の女性教師がくつろいだ雰囲気のとき、微笑みながら僕に言った言葉を突然思い出した。

「わたしの友だちが言うのだけれど、日本人ってとっても優しそうに見えるけれど実は、とても残虐らしいのよ」

それに対してどう答えて良いか困ってしまったことを思い出す。たしかに他の外国人に比べると顔の彫りも深くなく、目つきも穏やかだし、実際日常生活では他人を敬い、規則を守り、列を作って並ぶ。

その日本人が第二次世界大戦でアジアの諸国に対して行ったことは否定できないであろう。

前からこの目で必ず見てみたいと思っていたアウシュヴィッツにようやく行くことになったのは、今年の研究テーマである『死の教室』で世界に衝撃を与えた演出家、タデウシュ・カントルの博物館がクラクフにあり、アウシュヴィッツもそこからバスで一時間40分くらい出行けるからだ。京都のカントル研究会で講演した鴻英良氏が、カントルの『私は二度とここには戻らない』という作品にはアウシュヴィッツへの暗示が込められていると話されたことも記憶している。

アウシュヴィッツで展示されている、虐殺されたユダヤ人の膨大な数にのぼる靴やカバンや義足などを見て、それらは初めて見るものなのに既視感があり、それらを見て予想したほどの衝撃が起こらないことに逆に衝撃を受けた。

しばらく考えてその理由が分かった。アウシュヴィッツについていままで多くの情報がすでに入っていたこと以外に、ポンピドゥセンターを初めとする数多くの美術館で似たインスタレーションを見てきたからだと気づいた。

それらは虐殺された人の遺品ではなく、意図的に普通の人の衣類や靴を多量に集めたものでそれを初めて見たとき、それらを身につけていた人を想像せざるを得ないということだけで強い印象を与えるものであった。例えばルイーズ・ブルジョワの自らの身につけていたと思われるシュミーズやワンピースで構成されたオブジェは女性性というものの強い表現の一方法であった。

いままで自分が、何回が見てきた作品はアウシュヴィッツの遺品を模倣したか、それに感化されて制作されたものだったのだ。

事前にネットでフランス語のガイドで、6時間のstudy course を出発前に博物館のホームページで予約した。9月2日から希望を申し込んで2日分が拒否され、ようやく4日の予約が取れた。

異常に値段が高いと思っていたが、現地に行って分かった。フランス語の非常にうまい知識も豊富な専門ガイドが僕だけについてくれたのだった。

説明では、ナチスがこの収容所で行った一連の手続きは、ほとんど機械的である。列車で連れてきたユダヤ人をまず、最初に働かせられる者と、働けない老人や障害者や子どもなどすぐ殺害の対象になる人たちと選別することである。その前に犠牲者が持参してきた持ち物はすべて奪われでいる。不思議なのはそのときの写真がナチス側の誰かから撮影されたものが残って展示されていることだ。

頭を坊主にされ、名前を奪い、番号を刺青で入れる。縞模様の服を着せられ3方向からの写真を撮影されたものが展示されている。その眼差しはこちらをたじろがせる。これは2年前の夏、フランス文化研修で見たフランスの強制収容所跡に展示されていた写真の眼差しと同じである。

恐ろしいのは、残虐な跡をこれでもかと見せられているうちに、次第に感覚が麻痺したかのような感じになったことだ。おそらくこの現場で実際に収容されている人々を見張り、殺害したドイツ兵も次第に慣れていったのだと想像できる。

殺害することを決められた人たちは、まず裸にされ次にガス室に入れられ20分もしないで殺害されると隣の部屋で焼かれ、その灰を近くの空き地に撒かれた。アウシュヴィッツから離れたビルケハイムにはそのガス室と死体焼却所が、ナチスが撤退するときに破壊した跡が崩れた煉瓦の建物として生々しく残っている。

広大なビルケハイム収容所の森を歩いていた時のことである。夏の終わりでまだ緑が美しく、葉が時々落ちてくる。その時通訳の彼女が言った。「これは叙情的lyriqueではないですか?」後にフランスの厚生大臣になったシモーヌ・ヴェイユは何年も経ってから再びこの地を訪れた時に「ここは私が昔過ごした所と全く違っている。その時は沈黙だけだったのに、いまはいろいろな物音がする」と言ったと聞かせてくれた。訪問者の声が聞こえるのどかな風景、ここであれほど残虐な殺戮がなされたことが嘘のような風景が皮肉に思える。

思い出したのは、ハンナ・アーレントがアイヒマン裁判を見て「凡庸な悪」と下した判断のことだ。これほどの殺戮が繰り返されたのは自ら深く考えることをせず、ただ命令に従った結果であり、想像も出来ないほどの悪魔が行ったことではないのだという。

極限状況の中でさえ自らを犠牲にして他人の身代わりになって殺されたコルベ神父のように、人間はどんなにも優しくなれるし、反対に普通の人間がどれほどの残虐なこともなしえるのだ。

通訳は昼食の30分ほどとビルケハイムへのバスでの移動時間を除き、殆ど休まず6時間も案内し説明してくれたが、こちらが疲れて2度ほど休憩をとった。見学時間も残すところわずかとなったときあるがらんとした部屋へ通された。

その部屋の隅には数多くの写真が貼られたボードがあった。それは収容されていたユダヤ人たちがカバンに入れて持参したもので、収容されていた者が奇跡的に隠すことに成功しそれが後に発見されたことで今日展示されているのだという。

古びて黄ばんでいるものもある。見ているうちに何枚か同じものがあるので通訳の人に尋ねたら。そうだ、同じ写真を何人かが持っていたのだという。彼女の言うように、どの写真の人も微笑み、中には気取っている人も多い。

頭を丸刈りにされ、3方向から取られた収容所で撮られた写真とあまりに異なっている。人物はもちろんそれぞれ違うが、写真の場面は似通っているものが多い。結婚式、赤ちゃん、遊ぶ子どもたち、家族一同でそろった記念の写真、恋人同士、友人同士で撮った写真、・・・これらはある意味で当たり前の人間の生活だ。強制的に連れてこられるとき、人々は自分のかけがえのないものとして、これらの写真を持参したのだ。

ヒトラーとその命令で殺戮を繰り返した人々はこれらの写真を見なかったのだろうか?彼らは、この写真の人々の微笑みとその生活、残りの人生、全てを奪ったのだ。

ある狂気と、自ら考えることを放棄し、命令や規則に機械的に従うことが他の人々の全てを奪うことがある。それは戦争だけでなく、原発事故でも同じだ。

「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」と言ったT.アドルノの言葉の意味はまだまだ考え続けなくてはならない。(2015年9月6日。クラクフにて書き始め、パリにて書き終える。番場 寛)

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