旅の余熱-「あなたのお名前は?」とたずねるべきだった-

不思議だ。もうパリ、クラクフの計2週間余りの旅から帰って3週間も経とうとしているのに、体の奥底に旅で経験した熱のようなものをまだ感じる。

ここ数年、運良く、研究会や学生を引率するなどでパリを中心としてフランスには行くことができている。一人で行くときは泊まるホテルも、滞在中にやることも殆ど同じせいか、旅をしているという感動は薄れて来ていた。

今回、研究会の日程を終え、工事のため3年ほど閉鎖されていたピカソ美術館と、昨年有名な建築家フランク・ゲーリーの設計で新しく建てられてその奇抜な形で有名な「ルイ・ヴィトン財団美術館」に行った後、次にどこに行こうかと思ってどこも浮かばなかったとき愕然とした。

ところが9月1日から別の調査のために滞在したクラクフ(ポーランド)では全てが新鮮だった。ホテルや公的なインフォメーション以外では言葉が通じない。街中を縦横に走っているトラムもなかなか方向を読み取ることができるまで時間がかかった。その3日間用の切符を購入しようとしても紙幣で払える自動販売機の場所が分からない。ようやくそれを見つけても表示される言葉が分からない。

今もこの2週間の滞在で経験した何かがとても温かな記憶として残っていることがある。それは数少ない交わした人とのコミュニケーションの記憶だ。それを思いつくままに列挙してみよう。

パリ「国際ラカン協会」の夏のセミナーの会場で

初日にこの派の中心人物であるシャルル・メルマンを見かけ挨拶にいったら「まあ座りなさい」と言って迎えてくれた。その横に座ってぼくが、やはり難しくて説明が分からないと言ったら、わずか3分間ほどだったが質問に極めて明確に答えてくれた。ラカンは24巻に収められているセミナーではトーラスというドーナツ型の中が空洞のチューブのような形の図形を提示しているが、常に問題としているのはフロイトの指摘した「同一化」のことであること。「coupure裂け目」と「trou穴」との違いについては、coupureは構造に影響を与えないが、trouは構造を決定するものだということなど極めて明確に教えてくれた。

ルイ・ヴィトン財団美術館にて 

4日間の研究会が終わった翌日、前から行きたいと思っていたフランク・ゲーリーが設計したガラスと木の組み合わせが斬新な「ルイ・ヴィトン財団美術館」を見て帰りのバスの席についたら向かいに座ったカップルから「あなたは国際ラカン協会の会合に出ていたでしょう」と言われた。300人以上もいた会場で一回も言葉を交わしてない人から言われたので驚いた。向こうはこちらを覚えていたのだ。彼らは二人ともブリュッセルで働いている分析家だったが、驚くべきはそれ以上に無数の観光客がいるパリでこちらを知っている人に会ったことの方だろう。

パリのタクシーの女性運転手 

パリからクラクフ(ポーランド)へ向かう日、ホテルに迎えに来てくれたタクシーの運転手はアジア系の女性であった。いつも猛スピードで車を走らせる運転手に恐怖を覚えていたのだが、女性のためか安心して乗っていられる運転だったが、それ以上に彼女が自分から気にならない程度に話しかけてくれそれが心地よかった。彼女はカンボジア出身だった。ヴァカンスは一週間ほどフランスの地方に行ったこと。一瞬迷ったがクメール・ルージュの悲劇しかしらないので話しても気を悪くすることはなかった。

クラクフ(ポーランド)で受けた親切 

クラクフではフランス語は勿論、英語もホテルや公的インフォメーション以外では通じないことは覚悟していたので出発前に2冊ポーランド語の参考書を取り寄せ勉強したのだが、短期間で習得できるようには書かれていなくて、言葉は本当に困った。

初日に5時くらいにホテルに着けたので、第一目的の、クリコテカというタデウシュ・カントルに関する資料が収められている文化センターに行こうとして地図を見るとトラムに乗れば簡単に行けるのだが、どれに乗ればいいのかまるで方向が分からない。

本当に運が良かった。偶然目についた通行人の若い女性に英語で話しかけたら、答えてくれた。ただ彼女に地図を見せても彼女も困っている。と思ったら待っているようにと言い残し。ある店の中に消えた。しばらく立って出てきて言うには分かったので一緒に連れて言ってくれると言うのだ。悪いとも思ったし、多少不安にも思った。

旧市街から外れた生まれて初めてのクラクフを街をそこに住む女性に連れられて歩くのだ。彼女は大学では社会学を学び、会社で3年ほど働いたが止め、今は大学の職員として働いていると教えてくれた。僕は自分の仕事と今回の滞在の目的を話した。古いレストランの前を通りかかるときにはここは伝統的なレストランでお薦めだとも教えてくれた。

川を渡りクリコテカが見えたところで彼女と別れたが、その後彼女の感じの良さがそれ以後も残り、今も残っている。そのとき思うのはなぜ自分で名乗り、相手の名前を聞いておかなかったのかという悔いである。

アウシュヴィッツに収容されたユダヤ人たちはまず名前を奪われ、識別の番号を体に刺青で入れられた。アニメの「千と千尋」では「千尋」湯婆に名前を奪われ「千」という数字の呼び名を与えられる。

それを思えば年を取り学生の名前が覚えられないなどとは言えない筈だと自戒しなくてはなるまい。

またクラクフでは旧ユダヤ人街にある有名なモスクを探している時も通りがかったお婆さんに英語が通じないので住所を見せたら黙ったまま「私についてきなさい」という雰囲気で5分ほど歩いて連れて行ってくれた。そのモスクに入るとき初めてユダヤ教徒の帽子を被らせられるという経験をすることができた。

ホテルに変えるとき5分くらいのところに来ているのに見つけられずさ迷っているときも二人の若者にお世話になったが、ホテルの名前を告げても分からず、通りの名前を告げて分かる人がいて20分ほどしてようやく着くことができた。

たまたま持参して読んでいた雑誌に川上未央子が、人は後で考えたときそれがその人との最後の別れだったという経験をすることがあるのに、外国を旅行していて、最初からこの子どもとはもう2度と会わないのだと思いながら親しい会話をしているときの違和感について書いていた。

自分も恐らくそのような気持でお世話になった人たちに接していたのだろう。だから名前も名乗らず、相手も名を尋ねることもなかったのだろう。 でも、今はそのせいかよく分からない欠落感で胸が疼く。

「あなたの名前は何ですか?」覚えられないとしても、いずれ忘れることになろうとも、この言葉、相手を認めようという気持ちを忘れないためにこの表現を言う勇気を持とうと思った。

ところで、数少ない旅先で言葉を交わした人の中で、一番強く胸に残っているのは、ここ十数年間、一年に一度はパリか京都で会うことができるぼくが密かに「パリのおばあちゃん」と心の中で呼んでいるKさんの言葉だ。

パリのレストランで暑さのせいで、汗を拭きながら食べているときに言われた言葉は、90歳を越えても一人で元気に生きている人の言葉だからこそ心に沁み通ったのだろう。

「いいですか、体も心の問題なのよ。自分を救うことのできるのは自分しかいないのよ…」

実はある問題を抱えていることを彼女には話していたのだが、ぼくは、そんなに悲惨な表情をしていたのだろうか?本に書かれていたらそれほど感じ入ることはない普通の言葉なのかもしれない。ただ、遠く離れた地で、僕だけに向けられた言葉として今も残っている。(2015年9月26日。番場 寛)

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