「気づく」ということ

12月21日(月)に響流館3階のメディアホールで「カントルと能」の講演会が行われました。番場寛先生の「タデウシュ・カントルの劇作品における『反復』と『死の表象』」については、番場先生ご自身のコメントを待つことにしまして、今回は河村晴久先生の「能における『死の表象』」についてのレポートをしたいと思います。

能というのは、もともとストーリー性がなく儀式的なものだったそうです。

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この写真は翁面というそうですが、これが神そのものを表し、このお面をつけて語られた言葉は、神の言葉として、人々に受け入れられていたそうです。能は、神と人とをつなぐ踊りなんですね。でもどんな劇であっても、やっぱり面白くないと私たちは「見たい!」って思いませんよね。現代のシルクドソレイユだって、面白いからこそ、私たちは見たいと思うわけですし。そこで、有名な観阿弥、世阿弥さんたちの登場です。本来儀式的だった能にストーリー性を付け、能をアトラクションにしちゃったんですね。

河村先生のお話の中で、一番印象に残ったののは、「舞う度に発見があります」という言葉です。能とは「型」の繰り返しで、その中でいかに無駄な動きをそぎ落とすかが重要だそうです。同じレパートリーを何度も演じることもありますよね。でも、そんな中でさえ、「発見」があるとおっしゃるんです。

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河村先生が『源氏物語』の御息所を演じら、劇中で衣を落とす場面を演じられた時のことです。その時、河村先生は衣を落とすことで、「心の内面や葛藤を全てさらけ出したような恥ずかしさ」を発見されたそうです。河村先生はそれまでも何度も御息所を演じられていたでしょうが、その時初めて「恥ずかしさ」を感じられたんですよね。それまではきっと、御息所にシンクロしきれるだけ要因が先生の心にたまっていなかったのではないでしょうか。それが初めて、先生ご自身の心が変化したことによって、初めて「発見」された、と。

私たちは日々の生活を、一見ただの繰り返しのように感じてしまうことがあります。しかし、そんな繰り返しの中でさえ、内面の成長とともに、新しい発見が生まれる可能性が含まれているんですね。もちろん、それはのらりくらり何も考えずに過ごしていては、そんな「発見」を見過ごしてしまいます。「発見」とは、外の世界が変化するのではなく、内の心が変化することによって、あたりまえにあったものの新しい側面に「気づく」ということなんだなと、河村先生の講演を聞いて思いました。

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また、能の実演も見せていただきましたが、どうやったらあんな風にすーっと動けるのでしょう??一つ一つの動作も無駄がなく、とても綺麗だと感じました。これまでが繰り返しの練習が、その演技一つに集約されているんですね。

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講演会を聞いて、能を実際に見に行きたくなりました。(12月23日:渡邊温子)

追加です。

これをお読みになった河村晴久先生から、以下の補足説明がありました。

「鎌倉時代に翁面を使った祝福芸の翁猿楽が盛んに行われるようになりました。古代の散楽からの名前を受け継ぐ猿楽の演技集団は、ストーリー性を持った劇としての猿楽と、祝福芸の翁猿楽の両方を演じて庶民に受け入れられていましたが、観阿弥、世阿弥親子が音楽的にも内容的にも改革を行い、人気者となりました。その結果京の都に進出し、足利義満と出会い、当時の文化人に愛される、より芸術的で面白い能になりました」

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