マノエル・ド・オリヴェイラ監督『アンジェリカの微笑み』(京都シネマにて)を観て

 ふと後自分は何年生きられるのだろうと思ってしまうことがある。そんな時、自分が尊敬する殆どの人が、自分より若い年齢で、自分の思うことを実現していることに気づき愕然とすることがある。何年も前に二人の教え子と一緒にパリのモンマルトル墓地にあるF.トリュフォーの墓地を訪れたことがある。その時、彼が52歳で亡くなっていることに改めて驚いた。するとそのうちのひとりが言ったのだ、「大丈夫です。まだゴダールがいます」と。
 
確かに今年85歳になるゴダールはまだ映画を撮り続けている。しかしそれ以上に100歳を超えてもまだ新作を発表しているマノエル・ド・オリヴェイラの存在は頼もしく映ったものだった。しかし彼は2015年4月2日に106歳で生涯を閉じた。この映画は彼が101歳の時に撮影した作品だと伝えられている。
 
ストーリーはとてもシンプルなのに、強く心を捉える。それでいて全体として何を言いたいのだろうと考えると幾つもの謎に満ちている作品だ。単なる謎だらけという訳ではなく、それぞれの観客、たとえばこのぼくが分からないが監督自身には明確な論理式のようなものがあり、それが隠されているだけではないかと思わせる作品である。
 
ある日急に、葬儀の前に死んだ娘の写真を撮って欲しいと頼まれた青年イザクは、その美しい娘、アンジェリカが横たわる姿にカメラを向けた時、彼女が突然、目を見開き、自分に向かって微笑むのを見る。驚いた彼が家で現像した写真には、微笑みを浮かべながらも目を閉じた姿しか写っていなかった。
 
自分が撮った美しい写真を日頃見つめているうちにその内の一枚の写真の彼女が目を見開き微笑むのを見て驚愕する。死んだアンジェリカへの恋心がイザクの日常を蝕んでいく一方、イザクは仕事として鍬でブドウ畑を耕す、村の労働者たちの姿を撮影し続ける。
 
映画で分からない一つは、死んだアンジェリカの姿と生きた労働者たちの対比だ。死んでいるアンジェリカの方が、イザクにとってリアルに感じられていることは間違いないのだが、それがやがて彼の心を蝕み、死にまで至らしめるということは何を意味しているのだろうか? 心が蝕まれていき、抜け出したアンジェリカの魂が白い姿となってイザクを誘い、丁度シャガールの絵のカップルのように空を飛ぶ幻想はイザクの心の動きとしては説得力を持つが、それとブドウ畑を耕す生きた人間たちとの対比は謎に止まっている。
 
イザクはその名が示すとおり、ユダヤ教徒であり、カトリックのアンジェリカの母親に自分はユダヤ教徒だがキリスト教徒の写真を撮るのはかまわないと説明していることから、明らかに二つの宗教の対比、ないしは対立を念頭に置いていることは分かるが、対比させることで何を狙っているのかわからない。
 
さらに、事あるごとにイザクを見つけると、お恵みをとねだる浮浪者の役割も分からない。生と死と労働と資本主義(金)という言葉が浮かぶがそれらの関係が解けそうで解けない。
 
また、イザクが部屋に吊した死んだアンジェリカの写真に見とれるのと呼応するかのように、吊された籠に入った小鳥を猫が見つめるシーンがあったが、あれはイザクのアンジェリカに対する欲望の隠喩として撮られているのだろうか?
 
とてもシンプルなのに、最初強すぎると感じたショパンのピアノソナタと相まって、オリヴェイラのこの作品は謎に満ちた美しさを放っている。(2116年1月17日。番場 寛)
 

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