コンテンポラリーダンスの「コンテンポラリー性」とは何か?

 今Kyoto experiment(京都国際舞台芸術祭)という舞台芸術の祭典が開かれており、会議と仕事の合間をぬって通っている。3月11日に観たチョン・カファイの振付のダンスとドキュメンタリー(「ソフトマシーン:スルジット&リアント」、於 京都芸術センター)においては、二人のダンサーによるインドとインドネシアの伝統的な踊りとコンテンポラリーダンスが披露され、二つの種類の身体が一人のダンサーの身体で実現されるのを観るのはまれな経験であった。

その時野原で腰を下ろしたままのダンサーの映像が流されたが、それには「コンテンポラリーダンスでは、思考に多くの時間を費やす」というナレーションがついていた。この言葉は、以後のダンスを観ているときも付きまとった。

3月5日に観たダヴィデ・ヴォンパク(フランス)による「渇望URGE」には冒頭から驚かされた。ウエットスーツのような素材の衣装から手脚をむきだしにした髪を短くした女性のような美しい若者(後に男性だと分かるが)が登場するなり、息づかいも荒く口からよだれを垂らすのだ。続く男女もみな同じようによだれを垂らし互いの関係性を築いていく。

それにも増して奇妙なのは、ダンサーの動きがいわゆる「ダンス」らしいものではないことだ。日が経ってしまったせいもあるがおそらく観た直後でもかれらの動きを言葉で表すことはぼくにはできなかったであろう。

時折、回転を見せる場面があり彼らが鍛えられてダンサーであることが分かるが、多くの動きはいわゆる「ダンス」と呼べるものではない。思い出したのは昨年末、東京芸術劇場主催のカントルの劇団員だったリュトカ・リーバさんのワークショップで聞いた「舞台で繰り広げられる断片的なものを、観客自身が寄せ集めて物語をつくる」という言葉だ。
 
ダンスは、特にコンテンポラリーダンスの多くは「物語性」に強く寄りかかるものから、それをできるだけ排除し、人間の動きにより、時間の中で空間を構築していくものまで多様である。
 
「演劇」を観ている時のように「物語」を自分の中で探すことはないが、それらの動きを繋ぐ理由、論理を、ダンスを観ている時、人は求めてしまう。

この作品の「渇望」という題と、よだれを垂らす人物、時に乳房をむきだしにした女性のそれに齧り付くような動作から、観客が「性的欲望」を観てしまうようには作られているがそれが「物語」へと整理されていくようには他の動きは作られていない。パンフレットには、このダンスは「カニバリスム(食人)」をテーマにしたものだと説明されているが、本当だろうか? 仮にそれを意図して描いたのだとしても、観客として観た時にはその言葉に収束することはないダンスだと思う。もし仮に「カニバリスム」を描こうとしたのだとしたら、同じ人間を食べるときの空腹や性的な欲望や、相手の力を自分のものにしたいという欲望まで描かれなければならない筈で、そこまでは描かれてないか、読み取れるようには作られてはいなかった。

すべてのダンサーが尻をむきだしにして動き続け、塀の上のような所、そこは踊っている人たちの世界の外を示しているのだろうが、二人の男女が舞台で踊っている人たちを見下ろしていたが、彼らも最後には踊っている人たちと同じく尻をむきだしにして今度は並んで観客にそれを向けたのだ。それを観ながら昔ヒットした山上たつひこの漫画「こまわりくん」で主人公がむきだしにしたお尻をむける場面を思い出した。
 
また男性がスパッツから自分の性器(模造品か実物かは分からない)を出し、それを自分で触れたりや他人に触れさせたりする場面もあった。
 時折、不気味な効果音は流れるが音楽は流れず、展開も全く予想できない、息詰まるような雰囲気に観客席が包まれる中、一人の男性の観客だけが何度か大きく笑い声をたてた。

決して「物語」に収束することなく、緊張とそれからの解放が絶妙に組み合わされたまま55分という作品は終わった。
 驚いたのは舞台上から全ての人物が消えて音楽が流れた瞬間である。舞台上には誰もいないのに、それまで一瞬たりとて感じることのなかった言いようのないカタルシスが一気に訪れたのだ。

それまで繰り広げられた「ダンス」にそのままその曲を流せばその時、カタルシスが訪れたのではないかと、一瞬思ったが違うのだろう。それまで観ていた音楽のない、物語に収束しない人と人の動きで構築される空間の緊張から解かれた時に生まれたカタルシスだったかもしれない。

ではそれまで観客の緊張をつなぎとめたものは何だったのだろうかと考えると、人がかつては誰でも持っており、今も体のどこかに残っている「口唇的欲動」「肛門的欲動」に訴えかけたからではないか、つまり人の発達段階のある時期に「退行」する過程を鍛えられたダンサーの動きにより再構築したからではないかと思った。

実は、この作品の振付を行い、自身も踊っていたダヴィデ・ヴォンパクのワークショップにかつて二回参加したことがある。最初は数年前、京都芸術センターのフリースペースで二日間にわたって行われたものであり、その時は過呼吸のように、ひたすら呼吸を意識的に操作し、それによって動きを作っていくものであった。
 
二日目の最後には部屋を飛び出し、全員で部屋を飛び出し、廊下を走って踊った(?)ことを覚えている。二回目のワークショップは「ビラ九条山」の祭典の時にテントのような中に入って彼の指示で動くものだが、あきれたのはたしか「オルガスム」というタイトルで、参加者が過度に呼吸をし、喘ぎ声を上げるもので、ふざけているのかと思ったがダヴィデはあくまで真面目だった。

この公演後、この芸術祭の実行委員長である橋本祐介さんに会ったとき、「予想を裏切らないヘンタイでした」と笑いながら言ったが、それは決して侮蔑的な感想ではなく、僕としては敬意の表現であった。(2016年3月16日、番場 寛)

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