カテゴリー別アーカイブ: イギリス

日・中・韓 国際共同制作作品『演劇「祝/言』(作・演出 長谷川孝治)を観て 

11月30日に3つのクラスの補講を済ませ、3時6分初の新幹線で東京に向かった。翌日9時から始まる「日本ラカン協会」の研究発表会に間に合わせるためだが、今回は、それ以上に関心のあるものが多すぎた。当日ぎりぎり「にしすがも創造舎」へ着いたのは、6時を少し回っていたが劇の開始には間に合った。

イギリスのフォースド・エンターティンメントという劇団の「The coming Storm-嵐がきた」という劇を観た。最初語り手が演劇の物語の作られ方を説明した後、メンバーが次々と虚実混ぜた物語を始めるが、他のメンバーがそれにちょっかいを出し、中断させられる。

いわば物語り、演じる行為そのものを問題とするメタシアターの一つであり、次々と生み出されては壊されていく物語りが演じられていくのを観るのは、それはそれで楽しかったが方法が分かると飽きてしまったのも事実である。

感動したのは、翌日の研究会の昼休みと総会の間を利用して新国立劇場小劇場で観た、『演劇「祝/言」』という作品である。

どうしたことか、まだ残る感動を言葉で伝えたいと思うのに粗筋が思い出せないというより、殆どストーリーを気にすることなく引き込まれていたのだ。自分は何に陶酔していたのだろうか? それは主に、韓国、アンサンブル・シナウィーの民族楽器、それに日本の津軽三味線と、ピアノの奏でる音楽と歌(イ・ボングンの声が本当にすごい)、それに中国人のダンサーのコンテンポラリーダンスと、日本人の日本舞踊が劇に挿入された作品のうねりに視覚と聴覚が飲み込まれて陶酔したからだ。

2011年の震災で、生き残った自分の心をどう整理しようかと自問する中国人が東北にもどり、知人と再会する。一方日本人の息子が韓国人と結婚することで近親者が集まりそこで父親が祝言を述べるという設定で、そこに知人の中国人も集まるという設定である。

今月京都芸術センターで観た「冨士山アネット」が韓国人ダンサーと制作した「何で踊っているんですか?」という作品を始め、やたら日・韓国共同制作の舞台作品を目にする(金沢21世紀美術館で開催されている「ONE DAY, MAY BE いつか、きっと」は日韓英共同制作である)。

ニュースや新聞で知る限りにおいては、日本と中国と韓国との関係は冷え切っているという以上の悪い関係だということだが現実はどうなのであろう? まるでそうした政治的現実に危機を感じているかのように舞台制作の現場では、交流がなされている。

中国語も韓国・朝鮮語もぼくは殆ど知らない。この「祝/言」を観てまず驚いたのは、中国語も韓国・朝鮮語もこんなに音として美しい言葉だったのかということである。まるで音楽のように、囁きかけてくる。スクリーンに映し出される翻訳の言葉が美しいせいだけではないと気づいた。

つまりぼくが普段耳にするそれらの外国語はテレビで流される言葉であり、政治家やアナウンサーが政府の主張、それも大抵日本を非難する言葉を発しているのを聞く機会だけだからだと気づいた。

息子の結婚式に集まった3国の参列者たちを前に父親は、作品のタイトルにもなっている「祝言」を述べる。

「・・・わたしは中国と韓国は陸で続いているが、日本は海で隔てられていると思っていました。しかしそうではないのです。海で繋がっているのです。それよりこの空です。空はいつも繋がっているのです。鳥が飛んでもぶつかることはありません・・・」

ここに覚えているところをそっくりではないだろうが書き出しても聴いたときの感動を伝えることはできない。演劇や小説で本当に伝えたいことはそのままの言葉では伝えられないとずっと思っていた。だからこの作品を観て本当に驚いた。どうしてこれほどメッセージをそのままストレートに表した台詞に感動させられるのだろう?

国家間の利害関係や暴力に対し芸術は殆ど無力だし、震災に対しても完全に無力だ。しかしその「無力さ」という言葉の前には「殆ど」がつくことを忘れてはならない。現実がどんなに悲惨だとしても芸術はその「殆ど」に、かすかに残る現実への働きかけの可能性を、その無力さの自覚とともに探るものであってほしい。

「祝/言」という言葉の「祝」と「言」の間にあるスラッシュの意味を考えなければならないだろう。いまだ3.11の傷から癒えていないわれわれにとってそのスラッシュは、心に突き刺さる棘であり、それを意識し続けることをこのタイトルは要求しているのだと思う。

劇の最後は中央に青空とも海とも思わせる青い空間に真っ赤な舟が一艘斜めに浮かんでいるのを真上からみた光景で終わっている。津波で流されて一艘だけ海を漂っている舟にも見える。あの舟はいったい誰を乗せて行くのだろう?

残念ながら韓国と日本の公演は終わってしまい、一月の北京・蓬蒿劇場の公演を残すだけになってしまった。機会のある方は是非ご覧になってください。(2013年12月4日。番場 寛)

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English Tea Party と Café français

前期好評だった Global Square カフェ企画「世界の街かど」のご案内です!

2013年10月28日(月)16:20~17:50  に
English Tea Party

2013年10月31日(木)13:30~15:30  には
Café français

を開催いたします。

場所はいずれも Big Valley Café です。

詳細についてはぜひ
行事予定をご覧ください。

たくさんの学生さんのご参加をお待ちしています!!!

(2013年10月10日:助教足立和彦)

本当のあなたは誰なのでしょう? ―レオス・カラックス『ホーリー・モーターズ』を観て―

 2度見ることにより理解が深まるのは当然だが、2度見たことで一回目より、本当に感動が深まる体験をしたのは、おそらく初めてではないだろうか?京都シネマでの評論家の廣瀬純さんの解説は見事だった。カラックスのこの作品はジャン・ルノワールの『黄金の馬車』を下敷きにしていることを述べたが、舞台と人生との関係をともに扱っていることが両作品に共通しているという。
 
しかしその背景としてルノワールのときにあったような舞台の外の外的世界がカラックスの映画では描かれていないという差異が指摘された。
 カラックスのこの映画の主人公オスカー(ドニ・ラヴァン)は、観客にはその身元が不明の依頼者の指示に応じ、変装メイクを自らにほどこし、リムジンの外に出て指定された場所で指示された役を演じるのである。
 
様々な役を繰り返すが、映画の観客にはあたかもそれは演技ではなく現実に起きていることのように思わせる。例えば死の床で姪の見舞いを受け、彼女の相手が自分の財産を目当てで彼女と結婚したことで不幸にしたことを詫びる場面に観客がすっかり引き込まれた直後に、彼女を起こし、悪いが次の約束があるのでとベッドから立ち上がると、彼女も私もといい互いに微笑みを交わす。それまでのメロドラマがあくまで演技だったことを強く印象づける瞬間である。
 
そのように繰り返される演技の中で、最も感動的だったのは、打ち壊しが決まったサマリテーヌというデパートの建物で若い女性と逢い引きするシーンである。オスカーと女(カイリー・ミノーグ)過去に恋人だったが訳あって別れたのであり、20年ぶりの再会だと女は言う。「あと20分でわたしのパートナーが到着する。20分でわたしたちの20年分を埋めましょう」と男に言う。そして突然、オペラかミュージカルのように歌い出す。その歌はこの映画のテーマ全体を歌っているかのような題名、Who were we ? (わたしたちは誰だったのでしょう? )なのだ。

この映画の主人公オスカーは勿論のことかれにまつわる人物もすべて演技として行動する。演技ではない実生活での自分とはどのような人間か分からなくなってもおかしくない。

この映画が下敷きにしていると指摘された『黄金の馬車』のヒロイン、カミーラは言う「人生も舞台も一生懸命やってきた。でもどうしても人生は舞台のようにはうまくいかないの」と嘆く。
 
驚いたのはカラックスの映画の最後でオスカーに出された指令は「あなたの家」というものである。オスカーが自分の家の呼び鈴を押し、しばらく待った後家に入ると出迎えたのはチンパンジーの妻と子であることが窓越しに見える。大島渚の『マックス・モナムール』への参照であり思わず笑わせられるのだが、この場面はこの映画のテーマをより鮮明にしている。俳優は勿論だが、それ以外の職業の人間も、自分では演技ではない実生活として行為していると思っていることが、演技でないと言い切れるであろうか? 
 
してみるとこのテーマはシェイクスピアの「この世は舞台、ひとはみな役者(『お気に召すまま』)という台詞に始まり、それを自己流に表した寺山修司の『青ひげ公の城』という劇中で7番目の妻になろうとする少女の台詞を初め、おそらく無数に繰り返されている演技と実人生との関係という古いテーマを斬新な手法で描いた作品ということになろう。
 
ところが驚くのは、このWho were we ? を映画の中で、歌った女は、 主人公、オスカーが建物の下に降りていくと、飛び降り自殺しており、頭から血を流しているのだ。その傍らには同じく彼女のパートナーも死んでいる。映画の中のことだが演技であった筈のことが突然映画内の現実となってしまう瞬間である。
 
パーティで本当はひとりぼっちで洗面所に隠れていたのに、何人も男の子から誘われて楽しく過ごしたと嘘をついた娘に対し、父親の役を演じたオスカーは、「私は罰を受ける?」と尋ねる娘に対し「そうだ。お前の罰は、お前がお前として生きることだ」と答える。

 この映画ではオスカーはたった一日のうちに13の役を演じるのだが、わたしたちは一生のうちにいったいいくつの役を演じることになるのだろう?
 
ぼく自身は「本当の自分」などという表現は信じない。それは何度も引用するがJ.ラカンが「あるシニフィアンはもうひとつの別のシニフィアンに対し、主体を代わりに表すUn signifiant représente le sujet pour un autre signifiant」と言っているように、どのような人間も、あるシニフィアン(ことば) に対するひとつのシニフィアンとしてしかその人間を表さないからである。逆に言えばどの「自分」も本当のあなた自身ということなのだろう。
 
ところで、今日のあなたは、どんな役を演じていますか?(2013年6月27日。番場 寛)

次はEnglish Tea Party

5月30日(木)の Café français は天気は今一つでしたが、
参加者多数でたいへん賑やかになりました!
授業で学んだフランス語、実際に使えたでしょうか?!

そして次は英語の番です!!

Global Square カフェ企画「世界の街かど」

English Tea Party

日時:2013年6月3日(月) 午後4時20分~5時50分
場所:Big Valley Café
参加条件:ネイティブと英会話をすること。
参加費無料、事前申し込み不要、途中参加・途中退出OK。

オープンカフェのテラスでお茶とお菓子を味わいながら、気軽に英語でおしゃべりを楽しむイベントです。
「カフェ・フランセ」は昨年度に続いて2度目でしたが、
イングリッシュ・ティー・パーティーは今回初の企画です。
学生の皆さん、ぜひ参加してください!!!!
(2013年5月30日:助教の足立和彦)