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チベット映画上映会

イベントのお知らせです!

『河』ポスター

国際文化学科主催のチベット映画上映会として、ソンタルジャ監督作品『河』を上映いたします。

日時 7月13日(水)午後4時30分~

映画上映:午後4時30分~6時

解説・監督へのインタビュー映像:午後6時~

場所:響流館3F メディアホール

チベット牧畜民家族親子3世代のすれ違う切ない思いを、6歳の少女ヤンチェン・ラモの目を通して描いた作品です。「親子の確執」「死」といった重いテーマを取り上げてはいますが、主人公ヤンチェン・ラモの可愛らしい表情やユーモラスな会話が散りばめられていて、涙あり笑いありの作品となっています。

1カットごとの構図が丁寧に考えられていて、登場人物の心が映像で伝わってくる芸術性の高いものになっています。

チベットの生活習慣を垣間見ることもできますし、広く現代アジア映像文化の最先端を知るいい機会になると思いますので、ぜひご観賞ください。(7月5日:渡邊温子)

アルノー・テプレシャン監督『あの頃 エッフェル塔の下で』(京都シネマにて)を観て

 公開されてすぐに映画館に駆けつけたのだが、観客は数人しか居ず、すぐに上映が打ち切れられてしまうのでは、と危惧したほどであったが幸い上映は今も続いている。
 
映画の原題はTrois souvenirs de ma vie(私の生涯の三つの思い出)というものだが、そのまま訳したら全然客が入らないのでこのように変えたのだろうという理由はよく分かる。それは、20年前Comment je me suis disputé…(ma vie sexelle)(「どんな風に僕は言い争ってきたか…(僕の性生活)」)という原題を『そして僕は恋をする』と訳し日本でも大ヒットしたのと同じかもしれない。
 
『そして僕は・・・』というタイトルは秀逸だと思う。主人公はつきあっていた恋人と別れるのだが、彼女が独り立ちできるよう配慮し助けてやるなどずるずるとした関係を続けながら、次々と違った性格の女性と出会い交流を重ねていくのだが、いとも簡単に性交へと移行できる感覚にあきれたものだった。
 
デプレシャンの作品は日本で公開されたものはすべて観ているが、彼自身はヒットするとかしないとかは無関心なのではないかと思えてくる程、そのテーマというより描き方は独特である。
 
『あの頃・・・』は三つの思い出のうち最初の少年時代のそれが一番悲惨である。気のおかしくなった母親から逃れ弟と妹を守り、それでいて母親が亡くなった後は父親にも十分に愛されていなかったと思っているからだ。
 映画が奇妙な展開を見せるのはすでに中年になった人類学者で外交官の主人公ポール・デダリュスが、フランスに帰国したとき空港で税関吏に差し止められる。理由は同姓同名で生年月日の同じ人間がオーストラリアにいることが判明したからだ。
 
その理由は二つ目の思い出である高校生の時に親友と当時のソビエトのベラルーシに研修に行ったときのことだ。ユダヤ人の友人はそこの同胞をイスラエルに移住できるよう支援んしており、ポールのパスポートはそのとき彼らのうちの一人を脱出させるのに役立ったことが逸話として紹介される。
 この映画の邦題が『あの頃・・・』となっていることも表しているが、映画の中心となるのは三つ目の思い出である高校生の時に出会いその後も腐れ縁のように続いていくエステルとの関係である。

高校生の時に知り合い、ポールが人類学を学ぶためにパリの大学で他人のアパートに居候したり、屋根裏部屋に住んだりして苦学を続けていた。自分独りの生活で精一杯でエールを呼び寄せることはできず、パリの宿にエールが訪れるのは映画では一回きりで、普段は200キロ離れたルーベに住むエールと手紙を毎日のように交換するだけであった。
 映画では白い紙に愛の言葉がペン先から生まれ出る瞬間が何度も映し出され、同時に音声でその言葉が読み上げられ、時には実際の二人がその手紙の言葉を口から発する様として映し出されていた。

それを観ていて浮かんだのは、J.ラカンの『アンコール』の中の有名なⅦ章「UNE LETTRE D’AMOUR(「ある恋文」もしくは「ある恋の文字」と訳される)である。
 
その章は有名な「性別化」と呼ばれる、論理式を用いΦ(ファルス、欲望を表すシニフィアンであり、去勢をも表す)との関係によって男女の性のあり方を説明した章である。
 そこには有名な「女性というものは存在しない」とか「性関係はない」とか謎めいた言葉が出ており、いまだにいろいろ解釈しつづけられている章である。
 二人離れており互いに恋しく身を切られるような想いをしているのに、驚くのはエールが寂しさからポールの友人と関係を持ってしまうだけでなく、彼女への恋心は変わらないままポールも複数の女性と関係を持ってしまうことである。彼にとっては、恋心は性行為とは無関係であるかのようであり、それは『そして僕は・・・』と同じである。
 
彼らにとって「恋」とは何よりも「言葉」であり、それをインクの染みとして刻み続けた結果としての「文字」なのだ。これをメールやラインでの言葉のやり取りが殆どと推測される現代人が見たらどう思うだろうか?
 
今は出典を忘れてしまったが、「私はあなたに何も書くことはないということを告げるために書くのです」と書いた恋文の官能性が、インクの染みとして映像に映し出されるのがこの映画の新鮮さだ。
 
デプレシャンが1992年に撮った『魂を救え!』は、ラカンが『セミネール第11巻 精神分析の四基本概念』で論じた遠く離れてある角度から見ると髑髏が浮かび上がってくる、ハンス・ホルバインの絵(「大使たち」)の解釈の影響が指摘されているが、この映画にもラカンの『アンコール』の影響があるのかどうかは分からない。

もう一つ、この映画で分からないのは、主人公ポールがパスポートを貸したことで偽造されたもう一人の人物のことである。ある人間がまったく別の人生を送る可能性を示しているのだろうか? その場合、それと「インクの染み」としての「恋の言葉」はその人が他の誰でもないという証になるのだろうか? 2004年の『キングス&クイーン』も父親の残した原稿に対する厳しい批判が娘と父親との愛憎を表していた。
 
デプレシャンのこの『あの頃エッフェル塔の下で』の謎はラカンの謎によって倍加され今も考え続けされられている。
(2016年2月28日。番場 寛)

身体のない恋愛―「her 世界でひとつの彼女」(京都シネマにて)を観て―

今日は卒業式だ。卒業生の皆さん本当におめでとうございます。

式の後学科ごとに分かれた教室で一人ずつ証書を授与されたが、みな着飾り、特別に化粧をしているせいで最初個人を判別できなかった。

最後に教員が一人ずつお祝いの言葉を述べたのだが、自分に浮かんだのは、何事も、なくならないとそのものの本当のありがたさは分からないという当たり前のことだった。昨年も何人かの知人を亡くした。病気もした。「ある対象がない」ということでしかそのあるものの存在は実感できないのだ。ただ、失った人とは違い、もっと勉強すればよかったとかああすればよかったという後悔はこれから先、いつでも挽回できると思う。そんなまとまりのないことしか話せなかった。その後時間があるので今昨日観た映画について書いている。

これはパソコンの小型端末でOSに接続し、コンピューターなのにまるで人間の肉声のように主人公に語りかける。主人公セオドアは長年連れ添った妻に離婚を要求されているのだが、まだ未練があり、離婚届にサインする決心がつかないでいる。

この映画の予告編を見たとき既視感があった。ずっと昔、フランスで観たI love youという映画を思い出したからだ。それはある男が道端でイタリアのカーニバルのお面のような顔のキーホルダーを拾う。かれが口笛を吹くと「I love you」と答えるのだが、不思議なのは他の人の口笛ではだめで主人公の口笛でないとその小さな仮面は答えないのだ。

ところがある日彼以外で口笛でそのキーホルダーに「I love you」と言わせる男が現れる。主人公は非常にショックを受け、そのキーホルダーをハンマーでたたきつぶしてしまうという粗筋の映画だった。

それはとてもシンプルだが恋愛における自己愛や幻想、そして嫉妬心など恋愛の本質を極めて巧みに描いていると思ったが、こんどのherは同じ発想でありながら、やはり30年以上たった後に撮られた映画ということでパソコンのOSが答えるという点で数段進化している。

身体をともなわず声の交流だけの性交渉にあきたらないと推測したコンピューターのサマンサのはからいで別の第3者の肉体を借りて性行為を行うという試みはセオドアを戸惑わせ、うまくいかない。

世界で唯一自分のことを理解し、相手も自分を求めていると確信しているセオドアにとって、彼以外に同じような心の交流をしている人間が何百人もいるということは耐えがたく、セオドアの嫉妬はわれわれには当然に思われるが、コンピューターにはそれが理解できず、自分のセオドアに対する想いはますます高まる一方だと告白する。

自分に対して相手がどんなに強く、深く愛していたとしても、その相手が他の誰かをも愛しているとしたなら、その相手に対する自分への愛は信じられないのが、人間の本心であり、そこを人工知能であるサマンサが理解できない点がリアルで本当に良くできていると思う。

恋愛においてはそれができないときでも相手の完全な所有というものを欲せざるを得ないのが人間の恋愛の本質であり、この映画では相手をコンピューターに設定することで本当に巧みに描いている。

肉体を持たなくても時間とともに精神も成長、進化していくコンピューターは人間の比喩どころか人間の本性をむき出しにしているという意味で人間そのものだ。サマンサの声の演技によりサマンサの声を演じているスカーレット・ヨハンソンがローマ国際映画祭最優秀女優賞を受賞したのはまったく自然に思えた。(2015年3月18日。番場 寛)

 

 

講演会+映画上映 チベット文学と映画製作の現在:作家がなぜ映画を撮るのか

大谷大学国際文化学科では、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所との共催で、現代チベットを代表する小説家で映画監督でもあるペマ・ツェテン氏をお招きし、チベットの文学と映画の現状についてお話を伺うとともに、氏の出世作で、チベットの僧院を舞台にした映画『静かなるマニ石』を上映します。現代チベット文化を牽引する氏の声を聞き、その作品を見ることのできるまたとない機会です。チベットの文化や社会を理解するとともに、文学と映像の交差する場とその可能性について考えてみませんか。

入場無料・事前申込不要

  • 日時:2013年12月5日(木)17時~20時(開場16時30分)
  • 会場:大谷大学響流館3F メディアホール
  • プログラム
    1. ペマ・ツェテン氏講演・・・・・・17時~18時
      • Q&Aコーナー ペマ・ツェテン氏、サンジェ・ジャンツォ氏(プロデューサー)
    2. 『静かなるマニ石』上映・・・・・・18時~20時

※講演はチベット語(通訳あり)
※『静かなるマニ石』は日本語字幕

講師について:

講師のペマ・ツェテン氏は、1969年生まれ。中国青海省海南チベット族自治州ティカ県(貴徳県)出身。大学在学中に小説家デビュー。チベット語、漢語の両方で作品を執筆し、数多くの文学賞を受賞するなど、高い評価を受けている。10年ほど前から映画制作を始める。その作品は、チベットの人びとの生活に深く迫り、それを丁寧に描き出す作風で、海外でも高い評価を受けており、最新作『オールド・ドッグ』は、2011年第12回東京フィルメックスのコンペティションで最優秀作品賞を受賞しています。

上映作品「静かなるマニ石」について:

2005年の作品。ペマ・ツェテン氏の出世作ともいえる初の長編映画。現代チベットの仏教寺院のありさま--僧侶の生活や寺院と人びとのかかわり--が生き生きと描写されており、変わりつつあるチベットの「今」を知ることのできる作品。また、作品の随所に、布施を徹底するために自身の目玉まで布施した王子「ティメー・クンデン」の歌舞劇が挿入されており、興味深い。第24回バンクーバー国際映画祭ドラゴン&タイガー賞、第10回釜山国際映画祭ニューカレント特別賞など、数多くの賞を受賞。

「人生でもっとも恐ろしいのは、後悔とともに生きることだ」-村上龍著「結婚相談所」『55歳からのハローライフ』所収を読んで-

買ってから一年ほどたっていたのだが、先日偶然手に取り読終えた。驚いた。村上龍っていつこんな小説も書ける作家になっていたんだろう。

村上春樹の方は新作が出るたびに買って読むのだが、ほぼ同時期にデビューした村上龍の方は最初は読んでいたのだが、センセーショナルな話題や極度に歪んだ状況や人物の設定がどうも好きになれなかった。それでも『イン・ザ・ミソスープ』のように現代日本の時代と状況を、普通気づかない角度から浮かび上がらせる手法を持った作家だという評価は持っていた。

この本を読もうと思ったのは、ここに収められている「キャンピングカー」を雑誌で連載されていたとき一部だけを読んだのだが惹かれたことと、タイトルを「55歳からのハローワーク」と読み違えて、何てリアルなタイトルだろうと身近に感じた。村上が以前出しヒットさせていた、『12歳のハローワーク』というこどものための仕事案内の本のタイトルが頭に残っていたせいだ。

「キャンピングカー」という中編小説は、会社の方針が変わり窓際に追いやられることになった58歳の主人公が会社の早期退職制度に応募して退職したのだが、それは、退職後、妻とキャンピングカーで全国を気ままに旅をするという長年の夢を実現したいと思ったためだ。

しかし、いまの生活の場を離れたくないというという理由だけでなく、子どもたちの結婚資金なども考えると一千万円というキャンピングカーの購入に同意してもらえない。娘の提案で再就職を始めるが、いままで自分の培ってきた営業の実績に基づく自信が、会社の看板を外され世間の客観的な評価にさらされたとき、いかにもろいものかと思い知らされ悪銭苦闘する話である。

いずれも年齢的に近い登場人物がリアルな設定で描かれているため身につまされる話なのだが、個人的に一番感動したのは、冒頭に収められている「結婚相談所」という作品と、「ペットロス」という作品である。

前者は外から見れば何不自由ない生活を送ってきた主婦が定年して家にいるようになった夫と一緒に暮らしていくことに耐えがたくなり、離婚する。しかし将来の不安や寂しさを感じ、58歳になった婚活を始めるという話である。相談所で出会う様々な男の描写は面白いがそれほど驚かない。皆自分の状況は棚に上げて自分に喜びをもたらしてくれる相手を求めてしまう姿が滑稽に描かれている。

韓流ドラマに熱中する主人公が、その婚活のためのパーティに行く途中で、レストランで薔薇の花束を傍らに置き泣いている若い男を見かける。主人公はその男の話を聞き、慰め、二人で男が持ってきたDVDを一緒にホテルの部屋で観ることになる。

感動させるのは、その若い男が、7年間も日本を離れてノースキャロライナで暮らしていたため遠距離恋愛だった恋人に別れを告げられた話である。そしてわざわざかれに会いにくるが、それは関係を修復するためではなく、直に別れの気持ちを伝えるためである。そのとき彼に彼女の気持ちは映画の「ひまわり」を観れば分かるはずだと伝える。

「ひまわり」は確かぼくもかなり映画館で観た映画としては初期のものではっきりと覚えている。イタリアで熱烈に愛し合っていた妻(ソフィア・ローレン)と離れ、戦地に赴いた夫(マルチェロ・マストロヤンニ)が戦地のロシアで死ぬところを助けられた娘と結婚し、子どもも生まれてしまう。

夫が死んだとは思えない元妻は現地まで探しに行き、幸せそうに新家庭を築いている夫を見て泣きながらイタリアに戻る。その後夫がわざわざイタリアに行き、元妻と再会するが、二人は二人が戻れないほど隔たった関係の中にいることを確認してまた別れるという作品である。

列車の窓から畑一面に見える「ひまわり」は太陽を浴びた「性愛」の喜びの象徴でありながそれが絶望的な悲しみへと変化する素晴らしい映像だった。

村上の小説の主人公は、その若い男に別れた恋人がしたことに感動し、よりを戻そうと復縁を願い会ってくれるよう頼む元夫と自分も会おうと決意することになる。彼女がホテルの部屋で若い男と一緒に「ひまわり」を観たあと彼に言う。

「・・・うんと遠くにいる相手のところまで行って大切な何かを伝えるって、それだけで、すごい価値がある気がする。誠意がないとだめだし、相手のことを愛していなければできないことだし、でも、そうすることで、気持ちを尽くすことができるでしょう? 尽くすって、全部使ってしまうという意味と、相手のために何か努力するという意味があるけど、その両方が、あなたの彼女にも、ソフィア・ローレンにも、そしてソ連で所帯を持った元夫にも、もちろんあなたにも、その両方がね、必要だったんじゃないかなって思うの」

若い男と別れた後、主人公はさらに映画について「わたしたちは、別の人生がはじまると、別の人間になる、(・・・)『ひまわり』があれほど切ないのは、年月と状況によって人間が変わってしまうことを、ミもフタもなく正確に描いているからだ」と考える。

そして「心を尽くす」つもりで別れた元夫と再会するが、それはどんなに寂しくてもこの彼とはもう二度と暮らせないことを確認するために会うのであり、それが彼女にとっての「気持ちを尽くす」ことだと考える。

「お金や健康など、不安はある。不安だらけと言ってもいい。だが、人生でもっとも恐ろしいのは、後悔とともに生きることだ。孤独ではない」と自分に言い聞かせ一人で生きていくことを決意する。

これだけで長くなってしまい他の作品を紹介することはできないが、この小説の主人公たちはいずれもアンチ・ヒーロー、ヒロインであり、どの人も現在を必死で喘ぎながら生きている人間である。みな下り坂の人生の途中において何とか踏ん張り希望を見出そうとしている。読み終えて思うのは、これは単に年齢的なことでもなくて、人生の上り坂にいる若いぼくの学生たちだってきっと勇気づけられる作品だということだ。

この『55歳からのハローライフ』を読んで、いつ村上龍はこんなに成熟したのだろう、変わったのだろうと驚くばかりである。(2013年11月4日。番場 寛)

映画の秋、フランス映画のラッシュが続く

いろいろな提出書類の作成に追われている一方、年に一度の舞台芸術の祭典KYOTO EXPERIMENT 2013が始まっており、招待作品は全て観るつもりで通っており、疲れからか劇の最中に瞬間的に眠ってしまうことがある。

それなのになぜか「京都シネマ」ではフランス映画の上映が目白押しであり、いずれも異なった視点で描かれた作品であり、見逃すには惜しいので、こちらも仕事と、劇のない日を縫うように映画館に通っている。

 

フランス映画ではなくても、ここ最近観た作品を挙げると、「夏の終わり」(日本)これは満島ひかり、綾乃剛という人気俳優を使い、息苦しいまでの三角関係を描いていたが、最近授業で久しぶりに見たエリック・ロメールの「パリのランデヴー」の中の2つめの「パリのベンチ」と構造的にかなり似ていることに気づいた。

その映画の中では、一緒に暮らしている男と別れたいと言っているくせになかなか別れようとせず、別の男とパリのあちこちでデートを繰り返していた若い女が、最後に決心しその男とホテルに入ろうとしたら、そこに一緒に住んでおり、別れたいと言っている男が別の女と入っていくところを目撃し、自分の本当の欲望に気づくという話であった。

その女の言う、別の男とつきあっているのは、一緒に暮らしている男に対する満たされない気持ちを埋めるためであり、本当に好きなのはその一緒に暮らしている男なのだということを、その男に裏切られた瞬間に思い知らされるという心理のメカニスムは、倫理的な問題以上に学生には分かりにくいようであった。

他の映画もいずれも「京都シネマ」で観たものだが、列挙してみよう。

「ノーコメントbyゲンスブール」(残念ながら一週間で打ち切られてしまったが、すばらしいドキュメント映画で、あらためてゲンスブールが本当にかっこ良かったことを再認識させられた)。

「クロワッサンで朝食を」ジャンヌ・モローが、すでに心の離れた昔の愛人以外は、誰にも心を開かない孤独な老人を演じており、底なしの孤独の中にあるとき人はどのようにそこに耐えることができるのだろうかといういう可能性を示してくれる。

「大統領の料理人」これはかつてのフランソワ・ミッテラン大統領の料理人を務めていた女性の話をもとにした劇映画であり、「おばあちゃん料理」(日本流には「お袋の味」)にたけており、大統領も満足していたのに、他の料理人の嫉妬と、大統領の健康を配慮する政治的な理由から、自らの能力を発揮できず止めざるを得なくなる主人公の悔しさが描かれているが、中心となるのはフォワグラとトリュフをふんだんに使ったフランス料理の一つの頂点の映像化でもあろう。

「ポルトガル、ここに誕生す キマランイス歴史地区」。これはアキ・カウリスマキ、ペドロ・コスタ、マノエル・ド・オリビヴェイラというポルトガルに住む3人の監督がポルトガルの起源と言われている地区を舞台に撮った3つの作品からなくオムニバス形式の作品である。いずれも短いものだが十分にそれぞれの監督の対照的な特徴が発揮されている。

「スーサイド・ショップ」これは「髪結いの亭主」、「仕立てやの恋」等で日本でも人気の監督、パトリス・ルコントが始めて制作したアニメ作品で、自殺願望の人にそのための道具や薬品を販売する店の一家の物語であり、優れた映画だが、ブラックユーモアを理解しない我が国の教育関係者からクレームがつかないかひやひやしている。

その一家に突然変異のように生まれた太陽のように笑いをもたらす赤ちゃんが成長し、その一家を変えていき、生きる喜びへと導くという話で、キャラクターはいずれも、日本のアニメのようには、全然可愛くない。太ったお姉さんが裸で自分の部屋で踊るシーンには感心してしまった。

そのアニメのお姉さんのボリュームある肉体を実写で映したかのようなヒロインが出てくるのが「ルノワール 陽だまりの裸婦」である。紫や赤を初めとする様々な色が白に混ざって描かれている豊満な肉体を持つ裸婦のモデルとなる若い女性が、妻を亡くしたルノワール宅を訪れ、モデルとして働くうちに他のモデルたちやルノワールの二人の息子たちと交流し、上の兄とは恋愛関係になるという話で、何のひねりもない話なのに、なぜ最初から最後まで引き込まれてしまったのか、その理由を探している。

美しい自然とふくよかで美しい女性たちに囲まれていても、自らを襲っている老化と病による肉体的苦痛、それに輪をかけて戦争により息子たちを失ったり、失うことへの危惧に襲われている。

恋人をも振り切り戦友を裏切れないと言い、再び戦地へ赴く、ジャンという息子がのちの大映画監督、ジャン・ルノワールだと思い出したのは映画の最後の方であった。

これから上映される映画で観て絶対外れないのは「私はロラン」であろう。これは一回だけの上映会で観たのだが、男性が心から愛している女性に、自分がゲイであることを告白し、それでも自分を愛してくれるよう頼む、「究極の愛」のひとつのあり方を追求するカナダ映画である。

もうひとつは「母の身終い」といういうこのブログで触れた作品で、息子と母親の関係を、自ら安楽死を選択した母親とそれに対する息子の配慮という重いテーマを扱った作品で優れた作品であるが、重いテーマに耐えられるだけの精神の強さを観るものに要求する作品である。

いよいよ読書の秋であると当時に演劇、ダンスの秋でもあるが、映画の秋とも呼べるほど傑作が目白押しで忙しい。(2013年10月13日。番場 寛)

京都のこの「暑さ」は何色?―「照明のワークショップ」、「ハーブ&ドロシー」「ニューヨークの2日間」「女優の魂」等―

 このブログの検索ワードに「京都の夏の楽しみ方」というのがあり、どうしてこのブログにたどり着いたのかは分からないということと、「楽しみ方」という問いに思わず考え込んでしまった。

京都の暑さは異常だが、未だに忘れられない光景がある。それは京都に移り住んで間もない頃、四条通で暑さに喘ぎながらバスを待っていた時のことだ。ふと向かいの通りを見ると浴衣ではない着物を着た婦人が顔を扇子やハンカチで扇ぐことも拭くこともなく、しゃなりしゃなりと上品に平気な顔で歩いているのを見たとき、まるで化け物を見ているかのように感じてしまった。

大学で前から京都に住む学生たちに聞くと、暑さはこんなものです、とやはり平気な顔で答える。あれから20年もたった今でも京都の暑さには慣れていない。今年はさらに異常だ。ようやく休みに入り時間ができたので映画を見ようと思うのだが、映画館までの暑さを思うと勇気がわかない。それでもようやく「ハーブ&ドロシー ふたりからの贈りもの」「ニューヨーク、恋人たちの2日間」、「風立ちぬ」を3日間かけて観に行くことができた。

「ハーブ・・・」は前編につづき、生涯をかけて自分たちで買え、部屋に置ける範囲の現代美術作品を収集していた夫妻が、全部美術館に寄付することになったいきさつと、夫が死んでからの妻のドロシーの第2の人生のドキュメンタリー映画である。

これを観ながら、ずっと自分に問い続けている「所有とは何か」というテーマをまた思い出した。ある作品を自分で価値を認め、手元に置きたいと思う。しかしだれでもそれを永遠にあの世まで持って行くことはできない。多くの人に観てもらいたいと思うのは必然であろう。

「ニューヨーク・・・」はフランスの女優の中でぼくのお気に入りのジュリー・デルピーが監督と俳優としてでている作品だということであまり期待していなかったが、驚くほど素晴らしかった。

まるでどちらかというとぼくの嫌いなウッデイ・アレンの作品のようにせわしい展開だが、どうしようもない父親と妹を喧嘩しながらも本当によく面倒を見る主婦を演じている彼女は、最初レオス・カラックスの「汚れた血」で主人公に振られるも、最後にバイクに乗って疾走する美少女が美しく成熟している姿に本当にうっとりとしたが、写真家としての彼女が個展で、自分の「魂」をオークションで売り出し、それを買ったのがビンセント・ギャロであったという設定がリアリティを持って描かれていた場面に本当に彼女の力量を見たと思った。

「魂」という言葉から8月4日に観たチェルフィッチュの「女優の魂」という一人芝居をお思い出したのだ。その劇では配役を自分に奪われた同じ劇団の女優に嫉妬心から殺された女優の魂が一人で自分の半生を語るという意味と、その語りの中で女優にとって本当に必要なこと、つまり岡田の演技論とも思われるエッセンスという意味での「魂」という二重の意味を題に持つ劇であった。

一人芝居なのに空間にも語りにも厚みがあり、どうしてだろうかと考えたら、語っているときの間の取り方が見事なだけでなく、語りとは直接関係のない、身の動き、ダンスの組み合わせのせいだと思った。

8月9日に京都芸術センターで、照明家の木藤歩さんの「光の触り方研究会~身体であびる照明ワークショップ」に参加したが、知覚の8割を視覚に頼っていると言われる人間のその8割を減らすことによって別の知覚を呼び覚まそうという木藤さんの狙いを実践するワークショップであった。闇は光がなければ描くことはできず、影があることで光を表すことができることは知っていたが、視覚以外の感覚を呼び覚ますために闇によって視覚を制限するとは、新たな動きを構築するためにあえて身体に拘束を加え、あえて不自由な動きをするダンスの動きを思い出させる。

最初は絵はがきの絵画を見せてそれを別の知覚の言語に置き換えていく練習をした後、真っ暗闇の中で何種類かの布に触りそれを言語に置き換えた後、今度は明るくし、それを照明の当て方を考えて展示することを行った。

最後にグループに分かれて「ゆがみつつ月は出で」という宮沢賢治の詩をもとにしたうえで、照明の当て方を考えて動き作品を創るという作業を行ったが久しぶりにワークショップの楽しさを味わうことができた。

部屋で安部公房の論文を書き、ラカンに関する論文を読む以外はこんな風にして京都の暑い夏を過ごしているのだが、この夏は色に例えたら何色の夏と言えるのだろうか?

皆さんのこの夏は何色ですか?(2013年8月11日。番場 寛)