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自分の能力以上のことに挑戦する

前回のブログで紹介した、「無住庵尺八勉強会」に行ってきました。今回ハウザー先生は、甲乙(かんおつ)という曲を独奏されました。これは一昨年亡くなった人間国宝山本邦山の作曲した曲です。演奏が始まる前、ハウザー先生が、

「この曲は難しい曲です。今回は私のチャレンジです」

とおっしゃっていました。

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先生の言葉の通り、演奏するのがとても難しそうな曲でした。しかし、表情豊かな曲で、尺八ど素人の私が聞いても、素晴らしい曲と感じました。

私たちは何かを行う時、「これは自分には無理だ」と言って、最初からあきらめてしまうことがよくあります。だけど本当は、自分が今できることよりも難しいことだからこそ、自分の能力以上のものが発揮できるようになるのではないでしょうか。試験期間も終わり、これから春休みです。時間の余裕がある今だからこそ、何か難しいことに挑戦してみてはどうでしょうか?(2月1日:渡邊温子)

無住庵尺八勉強会のお知らせ

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この写真をみて、みなさんは何をしている人かわかりますか??

昔はよく時代劇で、こんな風に尺八を吹いて物乞いをしているお坊さんが登場したものです(そして、いきなり尺八から刀が出て来て、悪者をずぶりと刺したり笑)。

道ばたでのストリートライブ、ではありませんが、ハウザー先生尺八リサイタルに参加されるのでお知らせです!プログラムはこちら↓

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日時は2016年1月30日(土)、場所は池坊学園1階悠々です。

地下鉄四条を下車してすぐなので、アクセスもばっちり!リサイタルは1時30分からはじまりますが、ハウザー先生の順番は8番目です。ハウザー先生は以前、おいし~異文化カフェでギターを抱いて弾き語りを披露してくださいましたが、多彩な顔をお持ちですね!授業での厳しい先生ではなく、演奏者としてのハザー先生の尺八の音色をみんなで聞きにいきましょう!

尺八

静けさの中に、凛とした音色が聞こえてくるようです。

(2016年1月24日:渡邊温子)

日・中・韓 国際共同制作作品『演劇「祝/言』(作・演出 長谷川孝治)を観て 

11月30日に3つのクラスの補講を済ませ、3時6分初の新幹線で東京に向かった。翌日9時から始まる「日本ラカン協会」の研究発表会に間に合わせるためだが、今回は、それ以上に関心のあるものが多すぎた。当日ぎりぎり「にしすがも創造舎」へ着いたのは、6時を少し回っていたが劇の開始には間に合った。

イギリスのフォースド・エンターティンメントという劇団の「The coming Storm-嵐がきた」という劇を観た。最初語り手が演劇の物語の作られ方を説明した後、メンバーが次々と虚実混ぜた物語を始めるが、他のメンバーがそれにちょっかいを出し、中断させられる。

いわば物語り、演じる行為そのものを問題とするメタシアターの一つであり、次々と生み出されては壊されていく物語りが演じられていくのを観るのは、それはそれで楽しかったが方法が分かると飽きてしまったのも事実である。

感動したのは、翌日の研究会の昼休みと総会の間を利用して新国立劇場小劇場で観た、『演劇「祝/言」』という作品である。

どうしたことか、まだ残る感動を言葉で伝えたいと思うのに粗筋が思い出せないというより、殆どストーリーを気にすることなく引き込まれていたのだ。自分は何に陶酔していたのだろうか? それは主に、韓国、アンサンブル・シナウィーの民族楽器、それに日本の津軽三味線と、ピアノの奏でる音楽と歌(イ・ボングンの声が本当にすごい)、それに中国人のダンサーのコンテンポラリーダンスと、日本人の日本舞踊が劇に挿入された作品のうねりに視覚と聴覚が飲み込まれて陶酔したからだ。

2011年の震災で、生き残った自分の心をどう整理しようかと自問する中国人が東北にもどり、知人と再会する。一方日本人の息子が韓国人と結婚することで近親者が集まりそこで父親が祝言を述べるという設定で、そこに知人の中国人も集まるという設定である。

今月京都芸術センターで観た「冨士山アネット」が韓国人ダンサーと制作した「何で踊っているんですか?」という作品を始め、やたら日・韓国共同制作の舞台作品を目にする(金沢21世紀美術館で開催されている「ONE DAY, MAY BE いつか、きっと」は日韓英共同制作である)。

ニュースや新聞で知る限りにおいては、日本と中国と韓国との関係は冷え切っているという以上の悪い関係だということだが現実はどうなのであろう? まるでそうした政治的現実に危機を感じているかのように舞台制作の現場では、交流がなされている。

中国語も韓国・朝鮮語もぼくは殆ど知らない。この「祝/言」を観てまず驚いたのは、中国語も韓国・朝鮮語もこんなに音として美しい言葉だったのかということである。まるで音楽のように、囁きかけてくる。スクリーンに映し出される翻訳の言葉が美しいせいだけではないと気づいた。

つまりぼくが普段耳にするそれらの外国語はテレビで流される言葉であり、政治家やアナウンサーが政府の主張、それも大抵日本を非難する言葉を発しているのを聞く機会だけだからだと気づいた。

息子の結婚式に集まった3国の参列者たちを前に父親は、作品のタイトルにもなっている「祝言」を述べる。

「・・・わたしは中国と韓国は陸で続いているが、日本は海で隔てられていると思っていました。しかしそうではないのです。海で繋がっているのです。それよりこの空です。空はいつも繋がっているのです。鳥が飛んでもぶつかることはありません・・・」

ここに覚えているところをそっくりではないだろうが書き出しても聴いたときの感動を伝えることはできない。演劇や小説で本当に伝えたいことはそのままの言葉では伝えられないとずっと思っていた。だからこの作品を観て本当に驚いた。どうしてこれほどメッセージをそのままストレートに表した台詞に感動させられるのだろう?

国家間の利害関係や暴力に対し芸術は殆ど無力だし、震災に対しても完全に無力だ。しかしその「無力さ」という言葉の前には「殆ど」がつくことを忘れてはならない。現実がどんなに悲惨だとしても芸術はその「殆ど」に、かすかに残る現実への働きかけの可能性を、その無力さの自覚とともに探るものであってほしい。

「祝/言」という言葉の「祝」と「言」の間にあるスラッシュの意味を考えなければならないだろう。いまだ3.11の傷から癒えていないわれわれにとってそのスラッシュは、心に突き刺さる棘であり、それを意識し続けることをこのタイトルは要求しているのだと思う。

劇の最後は中央に青空とも海とも思わせる青い空間に真っ赤な舟が一艘斜めに浮かんでいるのを真上からみた光景で終わっている。津波で流されて一艘だけ海を漂っている舟にも見える。あの舟はいったい誰を乗せて行くのだろう?

残念ながら韓国と日本の公演は終わってしまい、一月の北京・蓬蒿劇場の公演を残すだけになってしまった。機会のある方は是非ご覧になってください。(2013年12月4日。番場 寛)

欠如が欠けている(?)-She She pop『シュプラーデン(引き出し)』、Baobab『家庭的1.2.3』を観て-

10月19日はとても充実した一日であった。入試業務の後、急いで京都芸術センターに行き、「シュプラーデン(引き出し)」という題の舞台作品を観た。これはドイツのパフォーマンス集団「She She pop」と呼ばれる女性だけのメンバーによって演じられた作品である。

東西ドイツに分かれていた頃に、壁の両側で生まれた6人の彼女たちが、題の示す通り移動式の「引き出し」に詰め込まれた書籍やレコ-ドや手紙などを元に、それらを読み上げたり、曲を聴かせたりすることを交えながら、メンバー同士も会話をする。

舞台に設置されたスクリーンには彼女たちの言葉を補う映像が流れる。ベルリンの壁崩壊とそれに続く分断されていた両ドイツの統一はあれほど世界を揺るがす大きな出来事であったのに、われわれ日本人にとってはあたかもドイツがずっと一つであったかのように思えてしまうほど現在ではその記憶は薄れてきている。

しかしこの劇で交わされる言葉はひたすら、イデオロギーによって分断された両ドイツ国民のお互いへの誤解を、「東ドイツの女はロシア語でしゃべっていると思われていた」などという笑いを込めながら告発し、それが今も残っていることを知らせる。

アフタートークの時に来ていた知り合いのKさんが、ヨーロッパの女性の腰の高さに驚いたということと、自伝的な語りがそのままポリティックな(「政治的」と訳してしまうとその意味の広がりと深さは伝わらない)語らいへと変化してしまう点に特徴があると二人で語ったが、不満が残る点でも同意した。

それはあまりにも台詞で全てを語り尽くしてしまっている点であった。そう、隙間がないのだ。

アフタートークを最後まで聞くことなく、続いて元・立誠小学校へと移動し、Baobabの「家庭的 1.2.3」というダンスを観る。この集団は、メンバーは多少異なっているが昨年も観ていた。

しかし今年は本当に驚かされた。本当によく体が動くのだ。若者によくあるようなヒップホップの踊りだけではなく、体の動きのバリエーションが豊富なのだ。明らかにクラシックバレーをやっていたとしか思えないような肢体の伸びがあったかと思うと、椅子を使った個人の動きの見事な構築もあるし、郡舞があったかと思うと、それぞれが揃わない独立した踊りをして、それで全体の空間を構築するなど、見事としかいいようのない動きであった。

皆本当によく鍛えられ動きが正確なのだが、その中の一人の女性がすぐに目にとまった。彼女の肢体を鞭のようにしなわせる動きに、彼女の金色がかった茶髪と、ボタンをはめないではだけた白いシャツが彼女の手脚の動きにほんのわずかに遅れて連動するせいだ。

公演後出口で観客を送り出している彼女を見かけたときつい、名前を尋ねてしまった。彼女は岡本裕子さんと名乗った。他のメンバーと同様彼女のより一層の振り付けに期待したい。

しかし、彼らのダンスは動きという点では本当にのけぞるほど見事なのだが、感じる物足りなさはどこから来ているのだろうと考えて分かったのは、丁度この前に見たShe She popのパフォーマンスがメッセージを直接表現した言葉で埋め尽くされていたように、Baobabのダンスは巧みな動きで埋め尽くされていたからだと分かった。

年を取り肉体が衰えるとそれに応じて身体の動きに制限が加わり、それが集中された表現となる。しかし若いがゆえに制限のなさが、表現に力を与えないのではないだろうか? そんな風に考えた。

うまく言語化できないもどかしさを感じていたら、たまたま読んでいた本にこんな言葉があった。

「省略し、余白をつくること、その余白に物語らせること、(中略)表現し尽くさず、何も描かれていない余白を作者と鑑賞者が想像力の限りを尽くして完成させる、それが日本の美の精神であり、能がマイナスの芸術と言われる由縁です」(観世清和談、内田樹、観世清和『能はこんなに面白い!』小学館、より)

しかし、能に限らず、ドイツの演劇であろうと、コンテンポラリーダンスであろうと観客を感動させるメカニスムとしては、共通のものがあり、それはここで述べられていることに尽きると思う。自分流に言い換えればこの日観た二つの作品はそれぞれまったく素晴らしかったのだが、「欠如が欠けていた」とでも言えるような点に僅かながら不満が残ったのだと思う。(2013年10月24日。番場 寛)

チェルフィッチュ『地面と床』を観て(9月29日、京都府立府民ホールアルティにて)

この作品は、現在行われている舞台芸術の祭典、KYOTO EXPERIMENTのオープニング作品として上演された。観客は殆どが若い客で、当たり前とは言え前日見た能(河村定期能)の客席には年配の方が殆どであったのと対象的であった。やがて生まれてくる胎内の子どものために日本を脱出しようとする長男の嫁と、すでに死んでいるが残された自分の子どもたちとの関係を保ちたいと執着する母親との葛藤という、震災後の日本の状況を連想させる設定、それに職に不安を感じている若者の心情など「未来」という設定のもとに現在の日本をストレートに描いた、恐らくすべての観客に分かりやすくテーマが伝わる作品ではないだろうか。

 

アフタートークで演出をした岡田利規自身が音楽劇と名づけると同時に、劇に亡くなった母親の幽霊が出ることで、「能」のような劇だと説明した。

 

考えてみればこれほどシンプルな劇もないのだろう。若い夫婦のところに夫の弟が、仕事が見つかったので借りた金を返しに来る。その仕事とは「人夫」、つまり肉体労働であり、それを巡っての知的労働ではないと思われているかもしれないという屈折したやりとりがあり、さらには亡くなった母親と弟の情愛と対象的な、兄と母親との確執がある家族ドラマ、おきまりの「エディプス」的な図式までも透ける筋書きである。

 

「地面」とは死んだ人の世界、「あの世」であり、「床」とは「この世」つまり生きている人の世界である。岡田のこの劇でも能のシテやワキ、ツレのように演じる人が台詞を言い、地謡がコラールのように状況を説明する歌として流れるように、「サンガツ」というグループの、ギターとドラムを中心としたシンプルだが力強い音楽が舞台上の演技、台詞と拮抗する。

 

アフタートークの時僕が質問したのは二つだ、一つは「音楽」はそれだけですでに観客の情感を醸し出すというより、観客の感情を過剰に導いてしまい、演技や台詞への集中を妨げてしまうのではないかという危惧であった。

 

それに対し、岡田は「昔はそぎ落として、そぎ落として劇を作ろうとしていた時期もあったが、音楽があってもいいじゃないかと考えるようになった」と説明した。

 

この劇の新しさは、彼のファンにとっては新しくなく同じみな、台詞とまったく独立した動きであろう。普通の演劇では台詞に基づいた表現したい感情と動きは連動しているのに、チェルフィッチュの劇では、台詞と動きが一人の役者において互いに独立しているものだから、見た瞬間に強い違和感を覚えるが、それが見る者に緊張感を要求する表現となる。

 

アフタートークのときに、その役者の中でも弟を演じた山縣太一の、猫背のように身を屈めて繰り返す動きが特に異様に映ったので、どのように振り付けをしたのかと岡田に質問したら、その動きの指示そのものは山縣自身が自分で考えているとのことであった。

 

この演劇のもう一つの特徴は、能だったら背景の松の絵の位置にTの字型の幕があり、そこに台詞が英語と中国語で映し出されており、何で日本でやるのに必要なのだろうと最初思ったが、効果的な仕掛けであった。「死者には忘却に抗う権利がある」などといってストレートに効果的で幽霊となった母親の心理(生存者が想定する死者たちの権利)を説明する字幕も効果的であった。

 

それはすでに日本語が通じなくなってきている「未来」のある時期に設定されており、「英会話」を習得することが強迫的に迫られている社会の延長線上にある社会であり、それを一人芝居で語る佐々木幸子の演じる女性の早口は字幕がそれに追いついていないことを台詞で指摘するとき効果は最高に達する。個人的には日本語の字幕をつけるほうがテーマにはよりふさわしかったのではと思った。

 

岡田の演出が若者世代に指示されている理由が分かる気がする。「言葉」と一致しない「動き」、その言葉も他人には通じないということの延長上に「日本語」そのものが通じない世界があり、心が通じたと思う相手とは「この世」と「あの世」とで隔てられている。

 

通じないこと、一致しないことの歯がゆさが、快感にも似た不思議な感情を導く、そこに岡田の演出と役者たちの演技の魅力があるのだろう。

 

だが見ていて、当たり前のことだが、やはりと思ったことが一つある。それは極めて誇張されているとはいえ、現実の延長上にある「未来」のできごとなのに、台詞は殆どすべて「過去形」で発せられていることだ。

 

それは「過去」のできごとであろうと「未来」の出来事であろうと舞台上で語っている限りにおいては「現在」の出来事であり、現在の出来事は語るときには多くは「過去形」にならざるをえないせいなのだろう。

 

まったく関係ないのだが、トークのときに岡田の穿いている靴が気になって仕方なかった。それは登山靴に見えたがかなり履き古した感じに見えて、おもわず2年ほどまえにジーンズに登山靴を履いて舞台でダンスを踊った「ローザス」の振り付け師、アンヌ・デレサ・ド・ケルスマエケルを思い出させた。舞台芸術の荒野を歩もうとする二人にふさわしく、とてもかっこいいと思った。(2013年10月3日。番場 寛)

「あまロス」が怖い―「あまちゃん」なんて嫌いだ(3)―

「嫌いだ」といいながら気づくと、朝は「あまちゃん」という朝ドラはぼくのささやかな生きる楽しみとなっていた。こんなことが「生きる楽しみ」だなんて、と情けなくなるが、そんなことより雑誌で「あまロス」、つまり「あまちゃん」が終わってしまうことで、「ペットロス」のように鬱の状態になってしまうことをさす言葉を見たとき他人事とは思えなくなってしまった。

偶然テレビをつけたら2回とも、「あまちゃん」に登場していたアキ役の能年玲奈さんが出ていて、びっくりした。

何を驚いたといって、実際の玲奈さんが、ドラマのアキと顔はまったく同じでありながら、インタビューには、おどおどと言葉少なに答えていたからだ。「目立ちたがり屋なのだけれど、人見知りする」という彼女自身の説明通り、イノッチの巧みなインタビューがなければ、番組が成り立たないほど話せないのだ。

しかし、「子犬系」と呼ばれる澄んだ瞳は、数少ない言葉を発するたびにいきいきと動き、見ている者をとりこにしてしまう。

翻ってドラマのアキの活発ではじけた行動を思うと、あれは演出と彼女の演技のなせる技なのだという当たり前の事実に思い当たり、あんな風に現実とは違った人物になりきることのできる彼女は「天才だ」と思ってしまった。

「あまロス」という言葉が生まれるほどこのドラマが愛されるのは、彼女以外にもすべての登場人物が本当に魅力的に描かれ、誰一人として「悪い人」はいないし、「助け合い」とか「家族」とか「地元」とか、コスモポリタンの作家、安部公房だったらたまらなく嫌悪感をむき出しにしてしまうような作品なのに、「見事だ」と思わざるを獲ないほどのドラマに出来上がっており、「あまちゃんなんて嫌いだ」と思いながらも、朝が待ち遠しい。それが終わってしまう。

昨日は音痴で人前ではとても歌えない筈の「鈴鹿ひろ美」こと薬師丸ひろ子が北三陸のひとたちの前で奇跡のようにうまく歌うシーンがあったが、あらためて脚本・演出の宮藤官九郎のすごさを思い知らされた。

主人公たちが歌う「潮騒のメモリー」の中の「三途の川のマーメイド」という部分を巡って、震災でドラマのなかの誰が亡くなってしまうのかと、週刊誌でもあれこれ予想が飛び交っていたが、今回は被災地でこの歌を歌うことに鈴鹿はためらいを見せていた。聞いている地元の人たちに東日本大震災で失われた多くの命を連想させてしまう恐れがあるからだ。

ドラマでは鈴鹿自身が悩んだ末、その部分を「三代前からマーメイド」、つまりアキと祖母が海女をやっていることを表す歌詞へと変えて歌った。

一番考えさせられたのは、鈴鹿ひろ美が本当に音痴だったのか、いままで音痴のふりをしていただけなのか、という春子(小泉今日子)の自問である。

「大震災のシーンは描かないで」という悲痛な願いが放送局に何通も寄せられていたと聞いており、それに対して作った映像の素晴らしさをある人が絶賛していた。

おとぎ話のような模型(ジオラマ)を使ったことと、トンネル内で立ち往生した列車から出て、歩いて外の景色を見てしまったユイの顔とその後の反応だけを映すことで、観客にすべてを伝える手法には、見事だという他ない。(しかし放射能への恐怖が語られていないという指摘には頷く)。

ドラマだとはいえ、現実を変えることはできない。しかしそこに虚構を交え、あり得たかもしれないもう一つの現実を描くことはできる。

テレビから流れる鈴鹿ひろみの澄んだ高い声は昔、薬師丸ひろ子自身が主演した「セーラー服と機関銃」の主題歌を歌っていたときのままだ。「本当の自分の声で東北の人たちに想いを届けたいの」という台詞がまるで薬師丸自身の想いであるかのように、虚構と現実が逆転してみえた瞬間である。玲奈さんのインタビュー時のあのおどおどした姿だってひょっとして彼女だったら演技かもしれないとさえ思ってしまった。

ところで遠くに住む普段演劇やダンスで活躍している知り合いの女性が、ある日「奥さん」と呼ばれたことに戸惑い、「妻にも主婦にもならなかった」自分自身のことを振り返って書いているのだが、「あなたはこれからも舞台では何度も妻にも主婦にもなれるじゃないですか」と言ってあげたくなった。

嫌いだと言いながら毎朝見ていた「あまちゃん」は明日で本当に終わってしまう。「あまロス」という病が現実にあるとしても、もう一つの別の虚構で乗り切れる筈だ、と思うのだが・・・・・・

(2013年9月27日。番場 寛)

「いつでも夢を」の歌声はまるでオペラのように流れ―「あまちゃん」なんか嫌いだ(2)―

相変わらず人気の朝ドラの「あまちゃん」だが、昨日は、これこそ朝ドラの真骨頂と叫びたくなるほどの出来映えの回であった。

主人公アキが家族で立ち上げた会社のタレントとして、かつて所属し、クビになった会社のオーディションを受ける場面だが、その日に北三陸から、アキの祖母ナツが倒れたと電話が入る。

母親の春子(小泉今日子)が急遽帰り、病院にかけつけると祖母は救急治療室で手術の真最中である。北三陸の地元の仲間たちが心配で気をもんでいるときに、春子は仲間からナツが、若い頃、橋幸夫に会い、一緒に「いつでも夢を」をデュエットしたこと、その後もずっと彼のことを心の底で想っており、最近東京で再会できたことを始めて知らされる。

このドラマのすごさは伏線がずっと先の先まで張られており、それが分かったときの納得感に驚くことだ。前にユイをスカウトするために身分を偽って潜り込んだ水口がなんで琥珀を磨く動作を繰り返しているのかと思っており、ひょっとして、と思ったら、やはりアイドルの卵を見つけ、それを磨き育て上げるという、「原石を磨く」仕事をそのまま隠喩的に視覚化したものだった。

何で、随分前に流行った「いつでも夢を」がスピーカーから流れ、海女たちが漁に出かけるときにもみな歌っていたのか分からなかったが、その訳が分かったのは東京で橋幸夫と再会したエピソードが語られたときだった。

しかし昨日はその春子の口から自分は母親のことを何も分かってなかったと独白が漏らされ、不安を打ち消すために、春子の言葉に呼応するかのように、病室にいる地元のみんなが「いつでも夢を」を合唱する。

北三陸の病室の場面と東京のアキのオーディションの場面を交互に映し出し、アキが課題として出された台詞として「母ちゃん、親孝行できなくてごめんなさい」と叫ぶシーンがあるが、これはアキが先輩に恋を告白して振られ、泣きながら自転車を漕いでいき空に舞い上がった後海に落ちるシーンと並んで、歴史に残るシーンではないかとさえ思わせるほどすばらしい。

時間が隔たっていればいるほどそれが繋がって、ああそうだったのか、と思うとき、またある人が言うべき言葉をまったく別な人の口から出ているのを聞いたとき、つまり時間と空間の隔たりが一挙に結びついたとき、激しい感動を引き起こすのだろう。

ところで「いつでも夢を」はぼくが昔「美しい十代」と並んで、最初に好きになった歌謡曲であり、それを歌っていた吉永小百合は最初に好きになったタレントでもある。あらためて聞いてみると何て上品な歌だろうと思う。「夢を持て」なんて上から偉そうに言うのではなく、「お持ちなさいよ、いつでも夢を」を優しく語りかけているのだから。

「母ちゃん親孝行できなくてごめんなさい」という言葉を心の中で反芻している人は今、どれだけ多くいることだろう? 現にこのぼくもそのひとりだ。精神、身体とも衰え、次第に遠ざかってゆく母を見ているとこの言葉をつぶやかずにおれない。

歌謡曲なのにまるでオペラのように登場人物に歌わせ、決め台詞を言わせることで、人間の心の最も弱いところをぐっとつかみ、泣かせる。
「あまちゃん」なんか嫌いだ。
(2013年8月20日。番場 寛)