読み終えるのに20年間もかかった本

 昨年の夏から論文を書く作業が続いていた。つらいのは一つのテーマに関係した書物を読むことに集中していると、その間読みたい他の本が読めないことだ。

時間もあるし、本も手元にあるのにそれを読まず、ひらすら論文を書くための資料を読んだり、原稿に向かったりしていると、何か人生の大切な時間を浪費しているような気になってくる。それよりふと気づくと恐ろしくなるのは、読まないのに買っている本が積み重なっていることだ。

学内の他の先生がやっていると聞いて、自分でもフランス文化のゼミで授業の前に、学生にどの本でもいいので、その週で読んだ本について皆の前で発表をさせている。読書への関心を呼び起こすという点においてはとてもいい方法だと思う。人によっては読みやすい、自己啓発の本を紹介する学生もいるのだが、できるだけそこから内容のあるもの、考えさる本へと移ってくれればいいと思う。

学生には、読書は筋トレと同じで、少しずつ負荷をかけないと力はつかないので、読みやすいものから少しずつ自分にとって難しい本へと、そしていままで読んだことのなかったジャンルへも挑戦するようにと指導している。でもまず本が好きになるように導くことを第一目標に挙げている。これが習慣になれば卒論はたやすく書けるからだ。

学生にそんなことを言いながら、はっと気づいたのは、自分自身が、運動をしていないと体の筋肉が弱るように、最近、研究と直接関係のない厚い本を読まなくなっていることだ。

自分の知りたい一番重要だと思われることが書かれていると分かっているのになかなか読み通せないで途中で読まなくなっている本が何冊かある。

そんな中、先日ようやくジル・ドゥルーズの『差異と反復』を読み終えた。翻訳が発行されたのは1992年だから、およそ読み終えるまで20年以上もかかったことになる。ここ数年、ことあるごとに自分にとって最も関心のある問題の一つは、この本の題名そのものの「差異と反復」である。このブログで演劇やダンスについてずいぶん書いてきたが、その度にこの「差異と反復」という言葉を何度か引き合いに出した。「差異」と「反復」は対立概念でありながらともに支え合って成立しており、言語や身体のあらゆる現象にあてはまる概念だからだ。しかしこのドゥルーズの著作そのものは読み終えていなかった。

それは内容がとても難しく、理解しようとするとどうしても立ち止まって考えざるを得ないからだ。たとえば「時間は、瞬間の反復に拘わる根源的総合のうちでしか構成されない」という文章があったとする。どういう意味だろうと思い読み進めていくと「過去と未来は、現在として前提された瞬間から区別された[二つの]瞬間を意味しているのではなく、もろもろの瞬間を縮約しているかぎりでの現在そのものに属する[二つの]次元を意味しているのである」(財津理訳)とちゃんと書かれている。

難しくて、考えているうちに別の読みたい本を読んでしまうのだが、やはりどうしても知りたいテーマだということでこの本にもどる。財津理さんの訳で分かり難いと思い同じくずっと昔に買っていた原書にあたってもやはり難しく投げ出す。少しずつしか読めないのでいろいろな場所で読めるように、数年前に出た文庫本でも読むようにしたが同じ状態だった。

それでもようやく読み終えたという感慨とともにショックなのは、内容が殆ど頭に残っていないことだ。

ダンスを見ているとき、ある動きが反復されるが時間の中で行われるとその同じ動きは違った効果、意味を生む。逆に、微妙に違った動きをしているのに、時間の流れとしては反復されていると感じることもある。

研究テーマのひとつである「欲望」にしても、その本当の対象はかつて経験し失ったものである場合が多い。また音楽はまさに「差異と反復」で成り立っている。音楽を聴く度に不思議に思うのは、詩と同じく「反復」(リフレイン)は心地よいのに、あるとき急に飽きた、ひとい場合には不快にさえ感じてしまうのはどうしてなのだろう。

昔東京で停車している電車に乗っていたら、ほんの数日の旅行から帰ってきたのだと思われる幼い少年が、窓から見える風景を見ながら「お母さん、ぼく懐かしいよ」と言ったのだ。

なぜ人はノスタルジーというものを感じるのか? いまそのことを思い出したのもそうなのだが、「思い出す」とはどういうことなのか? この『差異と反復』にはぼくの最も知りたいことが書かれている。これからもこの本の読書を「反復」しなければならないと思うとともに、厚い本、たとえばスラヴォイ・ジジェク『パララックス・ヴュー』、ロベルト・ボラーニョ『2666』(ともに厚さ4・5センチメートル弱)にも挑戦したい。
(2013年4月23日。番場 寛)

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