もう一度、いや何度でも『星の王子さま』を読んでごらん。

2年生の「国際文化演習」という授業で、サン=テグジュペリ作 内藤濯訳『星の王子さま』を読んでいる。この童話(?)はとかく「大切なものは目に見えないLe plus important est invisible」という一文だけがいたるところで採り上げられ、「子どもは純粋で、大人が気づかないことや見ようとしないことに気づく」といったような見方でこの童話を分かった気になっている人にはとても残念に思え、ときに怒りさえ覚えることがある。

子どもは「純粋」だから「大人」の慣れきった殆ど疑うことをしらないことに気づくのではなく、作者であるサン=テグジュペリが自分をも含めた大人の社会を想像力と思考を最大限に発揮して「王子さま」という登場人物を設定して自分自身と当時の社会に生きる人びとを批評したのだと思う。

フランス語の原文も一部配ったが、数回の授業では日本語で、全員で一緒に丁寧に読んでいき、冬休み後に、感動したところを一人ずつ発表してもらった。そのなかに今までの学生にいない発言をする学生がいてびっくりした。

かれは言った。「なぜこんなしょうもないことをこれだけのページを割いて書いているのかまったく分からない」と言った。発表のレジュメも、正式な原稿も用意してきていないので丁寧に読んできていないことは明らかだったが、考え込んでしまった。

それはかつての自分のことを思い出し、ひょっとして20歳くらいの学生の感想としては正直な感想かもしれないと思った。自分も小学生、中学生の頃はなぜこの童話がそんなに素晴らしいのか分からなかった。大学生になっても手にすることはなかった。

始めてこれが「分かった」と実感するようになったのは、この大学で短期大学部の学生のゼミで教えるようになったとき、この作品を本気で読み始めてからだった。一つ一つの言葉が身にしみるというのだろうか、実感として伝わってくるのだ。その読み取ったものを「知識」として結論だけを伝えると学生は「思考停止」に陥り、この作品で批判している「大人たち」になってしまうので授業としてはすごく気を遣う。

すでに自分では完全に分かったつもりでいるこの作品でも、学生たちの発表を聞いていて新たに気づいたことがあり驚いたことがひとつある。

それは砂漠にいる王子さまと語り手である「ぼく」が喉が渇いて「井戸」を探すときである。そのとき王子さまが言った「水は心にもいいかもかもしれないなL’eau peut aussi être bonne pour le coer…」という台詞についてどう考えるかと問いかけたときである。

それに対し、ある学生は「王子さま」は「大人」を批判するための「こども」という登場人物なのにこの台詞はまるで哲学者のようでこどもらしくないと指摘した。

「心にもいい」という言葉に注目させ、砂漠であり「喉の渇き」=身体的欠乏感と、「心の渇き」を癒やすものとして「水」を暗示させて対比させていること。また、それは「砂漠が美しいのは、どこかに井戸をかくているからだよ・・・・・・」という文の構造と、「星がこんなに美しいのも、目に見えない花が一つあるからなんだよ・・・・・・」とが、文の構造が同じことを指摘した。

しかしある学生が、それを飲めばすぐに喉の渇きがなくなるという丸薬を売っている「あきんど」の台詞を指摘した。その学生は「すぐに喉の渇きを癒やすのではなく、努力し、苦労し時間をかけ探し出した井戸から飲む水だから心にもいいのだ」と指摘した。他の学生も同意した。

それを聞いてはっと気づいた。「井戸をさがす」ということには「時間をかける」という意味もあったのだと。ぼくにとって前からこの童話で最大の謎は、王子さまが別れを告げた自分の星の「花」が自分にとってかけがえのないものだと気づくきっかけをつくってくれ、精神的に成長させてくれる登場人物のキツネが、王子さまにいう「飼い慣らしてほしい」という台詞である。

この「飼い慣らす」と訳されているapprivoiserというフランス語は辞書でも本当に「飼い慣らす」と訳されており、対等な親密な関係を結ぶという意味にとるのには少し難しいからである。

だがこれを「時間をかけて関係を築くこと」と受け取れば理解しやすいのではないかと気づいた。つまり「砂漠のようにそれが無いところで井戸を探す努力をする」ことは「飼い慣らす」と同じように時間をかけて自分の求めるものを実現していく行為と同じ構造を持っていると気づいたのである。

ついでに「飼い慣らす」という言葉について一人の学生が書いて提出したコメントが忘れられない。彼女は一匹の猫を飼っているのだが、顔のつくりは特別可愛いというのではなく、ごく普通の猫なのだそうだ。ただそれを毎日世話をし、えさをあげて生活しているうちに自分にとってかけがえのないこの世でたった一匹の猫になったという。なんてぴったりなのだろうと思った。その猫の写真がたまらなく見たくなったのは言うまでもない。

M君に言いたい。君が今の段階で「こんなしょうもない作品」という感想を正直に述べたことは、変に偽って「大切なものは目には見えない」という一語でまとめてこの豊かな作品を分かった気になっている人よりは評価するけれど、時間をかけて何度でも読んでごらん。きっと君も本当に素晴らしいと思える発見があるから。

蛇足だが王子さまがいろいろな星で出会う大人たちで、ぼくにとってたまらなく共感を覚える人物がひとりいる。それは「飲み助」である。

王子さまはその「飲み助」にたずねる。地の文を除いて会話だけを抜き出してみる。

「なぜ酒なんかのむの?」「忘れたいからさ」「忘れるって、なにをさ?」「はずかしいのを忘れるんだよ」「はずかしいって、なにが?」「酒のむのが、はずかしいんだよ」。

読んでいる者は笑うだろうが、ぼくも含めた多くの人が抜け出せなくなっている構造を何てうまく表現しているのだろうといつも感心してしまう。

あなたも、ここにぼくが書いたことも含めたあらゆる先入観を捨てて、あなた自身の読みで『星の王子さま』(小さな王子Le Petit Prince)を読んでみませんか?(2014年1月22日。番場 寛)

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