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チベットの民話(3)

チベット専門ゼミの授業成果として、今回もBlo bzang ‘jam dpal & Tshe ring sgrol ma (eds.), A khu ston pa. Grong khyer lha sa’i phyogs sgrig khag gsum rtsom sgrig pu’u, Grong khyer lha sa’i mang tshogs sgyu rtsal khang, 2001. 所収の笑い話を紹介します。

アク・トンバの「クソ喰らえ」

昔々、アク・トンバがラサからツェル・デチェン地方から帰るとき、何人かの旅人と会いました。彼ら旅人が道を行くとき、アク・トンバは喧嘩を売り、旅人達に「クソ喰らえ」と言いました。旅人達は耐えられず、すぐにアク・トンバを捕まえて、デチェン県庁に報告しました。すると、県庁はアク・トンバに「クソ喰らえ」と言った理由が何であるのか尋問し、アクは次のように正直に話を申し上げました。「彼らと私にいさかいは何もありませんでした。私から理由もなしに彼らに『クソ喰らえ』と言いました。デチェン県庁のどんなご処分もお受けします」と。県庁は旅人達が集まっている場所で「そんなにたいしたことではないが、アク・トンバは分をわきまえず理由もなく、旅人達に『クソ喰らえ』と言った罪により、アク・トンバは便所の下に立つべし。お前たち旅人はアク・トンバの頭の上に大便をすべし」という罰を下し、アクはそれを受け入れ、旅人達に「あなた達は、私の頭に大便をして下さい。県庁の判決に従います。しかし、判決には大便をすること以外、小便をしても良い、とはありせん。小便を一滴でもすれば、私の手に掴んだこの槍であなた達のお尻を確実に突き刺します」と言うので、彼らみんな小便をしてしまうのではないかと恐れ、大便することができませんでした。(澤井志保美訳)

(三宅 伸一郎)

チベットの民話(2)

チベット専門ゼミの授業成果として、今回はBlo bzang ‘jam dpal & Tshe ring sgrol ma (eds.), A khu ston pa. Grong khyer lha sa’i phyogs sgrig khag gsum rtsom sgrig pu’u, Grong khyer lha sa’i mang tshogs sgyu rtsal khang, 2001. 所収の笑い話を紹介します。欲深い先生を弟子が智慧でぎゃふんといわせるお話です。

先生のモモ

 

 昔、一人の先生に三人の弟子がいました。

その先生は、いつも自分が満腹になるだけの肉入りモモを七つしか作りませんでした。そのように度々作っていましたが、三人の弟子に全く与えたことがなかったので、モモを造るあるときに、一人の弟子が「今日のこのモモを先生に一つも召し上がる事がないようにして、私が奪う」と話すと、すぐに他の弟子二人が「あのケチな先生の手から奪うことができるのなら、私たち二人の家から肉やバターやお菓子、あるもの全てをあなたに渡そう」と言い、彼ら三人は賭けをしました。

 

 その日、先生の御前にお食事であるモモが捧げられると同時に、弟子が先生の御前に行き、頭をかいて舌を伸ばし、何か申し上げるようなことがあるような素振りを見せたので「何を言いたいのだ?」と先生がおっしゃると、弟子の彼は「昨日、私たちの国に豪雨が降ったために洪水で建物の壁が崩れたのですが、その下から金銀と銀貨が大きな鍋一杯ほど出てきました」と申し上げました。

 

 先生は「それで?」と言いながら、彼にモモを一つ与えました。彼はそのモモを食べ終わってから「父が『これを全部先生に差し上げたらどうか』とおっしゃいました」と話した時、先生がモモをまた一つ彼に与えてから尋ねると、弟子の彼は「母が『それでは、半分ほど先生に差し上げれば良いでしょう。先生には大きな恩があるけれど、家に少し置いておいて子供の将来のために使いましょう』と言いました」と申し上げた時、先生はまたモモを一つ彼に与えました。「その後、兄と姉は『全て母の言うとおりにしましょう』と言いました」と申し上げたので、モモを彼に全て与えました。その先生はお金がとても好きなので、弟子の彼にさらに話せとおっしゃいました。弟子の彼はモモを全て食べ終わった後、「そして、今朝の夜明けに私は目覚めました」と申し上げました。その日、先生はモモを一つも食べることはありませんでした。

澤井志保美訳)

「モモ」というのは、チベット風の餃子のことです。「頭をかいて舌を伸ばし」というのは、高貴な人に対する礼法です。

(三宅伸一郎)


チベットの民話(1)

チベット専門ゼミでは、リングル・トゥルクという高僧が編纂したチベットの民話集(Acharya Ringu Tulku, Tibetan Folk Tales, Book one. Dharamsala, Library of  Tibetan Works and Archives, 1977)を読んでいます。もちろんチベット語です。ゼミ生は昨年1年間、「チベット語入門」という授業で、ひととおり文法を学んでいます。ゼミでは、チベット語に慣れ、その文化を考えることを目標に、文法の復習も兼ねながら、ゆっくり・じっくりとテキストを読んでいます。今回、ゼミ生が、短いものですが、授業で読んだお話の翻訳を作ってくれましたので、この場を借りて披露したいと思います。(三宅伸一郎)

泥棒とラマ

 

昔、ある洞窟に善良なラマが住んでらっしゃいました。彼は、七つでひとくみの銀の供水杯以外、何も持っていませんでした。その国に悪い泥棒がいて、彼は、ラマの七つの供水杯を見ると、次のように考えました。「これを盗んで売れば、大金が手に入る」と。

ある晩、日が暮れると、泥棒はラマのいる洞窟へ向かい、丑三つ時になるとゆっくりとラマの家の窓から中へと手を伸ばしました。しかしラマは、一晩中手足を動かさずに瞑想をしていたので、眠ってはいませんでした。泥棒の手をご覧になると、左手で泥棒の手を掴み、右手で木の棒を持ち、泥棒の手の甲を叩いて、

「ラマに帰依します。

仏に帰依します。

法に帰依します。

僧伽に帰依します」

とおっしゃって、泥棒を放しました。

泥棒は、木の棒で叩かれた手がとても痛むので、ラマのおっしゃった言葉がはっきりと心に刻まれ、道中、ラマの言葉を何度も唱えながら帰っていきました。

泥棒が橋のたもとに着いたとき、橋の向こうの方から馬に乗っている人らしきたくさんの大きな人がやって来ました。彼らは、橋の中程まで来ると、泥棒が唱える声を聞き、急いで後ろを向いて逃げるように消えていきました。

その馬に乗った人らしき者達は、悪霊でした。しかし、彼らには、帰依を唱える人に危害を加えることは出来ませんでした。このように、三宝のお名前を唱えることだけにも、そのような力が備わっているのです。

(Acharya Ringu Tulku, Tibetan Folk Tales, Book one. Dharamsala, Library of  Tibetan Works and Archives, 1977, pp.51-52)

「学ぶ」ということから

昨日7日(火曜日)より授業が始まった。毎週火曜日の1限目に国際文化学科1回生必修の「国際文化演習I」が割り当てられているため、国際文化学科の新入生にとって、この授業が、大学で初めて受講する授業となった。担当者である私にとっても、これが本年度最初の授業であった。

チベット語に「ロプ(སློབ་, slob)」という語がある。「教える」という意味で使用されることの多いこの語の意味をあらためて確認するために、チベット語の辞書として権威を持つ『蔵漢大辞典』を引いてみると、次のような記述がみられる。

ロプ 〔他動詞〕 他より学問を「ロプ」すること、あるいは、他に学問を「ロプ」すること。

つまり「ロプ」というこの語は、「学ぶ」「教える」という2つの意味を有しているのである。このことは、「学ぶ」「教える」という一見対照的な行為が一体のものであるという事実に改めて気づかせてくれる。「教える」者がいなければ、「学ぶ」ことはできないし、「教える」ることに対するレスポンスが何らかの気付きを与えてくれること、換言すれば「教える」ことによって「学ぶ」ことは何度でも経験させられる。2つの行為がうまくかみ合い何かを生み出せる一体感を持った「場」を創出すること、それこそが「学び」なのではないか。「ロプ」という語から、そんなことを考え、年度最初の授業で少し提起してみたのであった。[三宅 伸一郎]

 

チベット僧院内での学びの様子を描いた絵画。中央に座す師の前で、弟子たちが手を打ち鳴らしながらながら問答している。

チベット僧院内での学びの様子を描いた絵画。中央に座す師の前で、弟子たちが手を打ち鳴らしながらながら問答している。

新年度はじまる

 新年度を迎え、国際文化学科でも数多くの新入生を迎えることとなった。

 4月1日には入学式がおこなわれ、昨日は朝9時からクラス別懇談会がおこなわれた。このクラス別懇談会の後半では、時間割の組み方についての説明がおこなわれた。大学において時間割は、与えられるのではなく、学生が規定を理解しながら、その枠内で、将来を見据えつつ、主体的に作成するものである。大学生活の第一の難関ともいえるこのことに、多くの学生がとまどっている様子であった。

 

キャンパスの一隅に生える土筆

キャンパスの一隅に生える土筆

正門の付近をはじめとして、キャンパスには、新入生を歓迎するかのように桜の花が咲き誇っている。そんな一隅に、ひっそりとちいさく生える土筆(つくし)を見つけた。桜とならびこれもまた、春を感じさせる植物である。

 

 大谷大学のキャンパスは、京都という町の真ん中にありながら、季節の移り変わり/自然というものを、いたるところで感じさせてくれる。

チベット語の電子辞書

 今年度(2008年度)のチベット語入門の授業で、受講生から「チベット語の電子辞書ってありますか?」という質問を受けました。即座に「そんなものはない!」と答えたのだが、ありました。

ロプサンというチベット人の起こした会社が開発・発売している「LZ828 Tibetan Chinese English Electronic dictionary(チベット語=中国語=英語電子辞書)」。

LZ828 Tibetan Chinese English Electronic dictionary

LZ828 Tibetan Chinese English Electronic dictionary

LZ828 Tibetan Chinese English Electronic dictionary

LZ828 Tibetan Chinese English Electronic dictionary

キーの上にチベット文字が記されています。

キーの上にチベット文字が記されています。

後ろにあるチベット語辞書の内容は、すべてこの電子辞書に入っています。

後ろにあるチベット語辞書の内容は、すべてこの電子辞書に入っています。

『蔵漢大辞典』『トゥンカル蔵文大詞典』『新編蔵文詞典』といった主要な辞書に加え、ことわざやチベット文化に関する小文のE-Bookが入っています。チベット語を入力できるメモ帳もあり、チベット語を勉強する人にとって、とにかく便利なツールです。

まあとにかく、辞書の重さから解放されます。

電車の中で

 後期試験も終わり、卒業論文の口頭試問なども一段落した7日の土曜日から、一般入試が始まりました(試験は明日10日まで)。土日はいいお天気でした。

 先日通勤途中の電車の中で、ふと気になることがあり、カバンの中からチベット語の資料を取り出し、気になる箇所を確認した後、それをカバンに戻してしばらくしたころ、隣に座っていた50代ぐらいの男性に、「さっきご覧になっていた本は何語ですか?」と尋ねられた。「チベット語です」と答えると、「左から読むのですか?」とか「どんな言語なのですか?」と、ひとしきりチベット語についてのやりとりが続いた。

 隣の人の読んでいる本を見る、まして、その本について尋ねるというのは、少々失礼な行為であるが、その時は何の違和感も感じなかった。そうした感覚を抱かせなかった原因は、チベット語という少々マイナーな言語について関心を持ってもらえた、あるいは、知ってもらえたという「嬉しさ」にあったのかもしれないが、それとともに、その時の男性の間を計ったていねいな尋ね方を挙げるべきだろう。

 ふとした縁を活かすこと、また、周囲に/すぐ近くの隣に関心を抱くことが新しい知識の発見へとつながることがある。しかし、新たな知識を求めてずかずかと隣の内側に入って行っては、かえって拒絶され、手を空しうして帰らざるをえなくなる。大きな好奇心とともに、他者との間合い(距離)を計り、知ること、それが、ふとした縁をおおいに活かす秘訣なのだろう。

「祈りの時間:オリッサの風に触れる」映像公開

12月12日(金)におこなわれたイベント「祈りの時間:オリッサの風に触れる」の様子がYouTubeに公開されました。こちらです。

今回公開されたのは、フォークダンス「ランガバティー」の様子です。 「ランガバティー」は、西オリッサに伝わるものです。男女がペアとなり、互いの思いを伝え合うという物語を表現します。それぞれの身振りがどんな意味を持っているのか、想像しながらご覧いただくとおもしろいかもしれません。

留学生たちとの文化交流会 IN 湖西キャンパス

滋賀県大津市雄琴の琵琶湖に望んだ高台に、グランドとセミナー・ハウスからなる「湖西キャンパス」があります。通常の授業はおこなわれませんが、ゼミの一夜研や課外活動などで利用されています。

湖西�ャンパスから見た琵琶湖

湖西キャンパスから見た琵琶湖

 

さて、この湖西キャンパスで、今日23日、2008年度第2回文化交流会が開催されました。この会は、文化的体験を通して、日本人学生と留学生たちとの交流を目的とし、年に2回ほどおこなわれているものです。今回は、杵と臼を使った「餅つき」をメイン・イベントとし、「凧揚げ」や「かるた遊び」などをして楽しく過ごしました。

経験者も少なく、「餅米の蒸し方がわからない」などの言葉が飛び出し、先行きが不安視された「餅つき」は、関係者の尽力により、無事成功したのですが、案外うまく行かず、逆にそれゆえ盛り上がったのは「凧揚げ」でした。何種類かの凧が準備されていましたが、そのうち「ゲイラカイト」は、何もしなくても、凧糸を持つ手が痛くなるほど勢いよく高く揚がりました。一方「奴凧」や「角凧」は、うまくいきませんでした。

小学校の頃、課題で凧を作り、それを飛ばすのに苦労したこと、そんな中で、「飛べ、飛べ、天まで飛べ」のCMソングとともに現れた「ゲイラカイト」の登場が衝撃的であったことが思い出されました。

「祈りの時間:オリッサの風に触れる」写真と出演者の感想

時間が経つのは速いもので、あのイベントからもう1週間経ちました。

イベントの写真を貼っておきます。当日の雰囲気を感じていただければ幸いです。

古典舞踊「オリッシー」

古典舞踊「オリッシー」

 

出演者全員による挨拶

出演者全員による挨拶

出演者である学生から、次のような感想をもらいましたので、併せて掲載します。

 12月12日に響流館のメディアホールで「祈りの時間:オリッサの風に触れる」というイベントがありました。私は、90分間の最後辺りにある3分間のフォークダンスをしました。

9月から集まり始め、10月の半ばから毎週水曜日4限以降に練習をしていました。11月には学園祭もあり練習に行けない時が続いてしました。ペアの相手や自分にも心配、不安を感じ11月後半は練習に励みました。迎えた本番は緊張で頭が真っ白になっても、驚いたことに体が自然と動いてくれました。熱心に優しく練習に付き合ってくれた先輩や仲間のおかげです。ありがとうございます!

イベントは大盛況の内に終わらせることができました。お客さんも予想以上に来てくださり、しかも好評をいただいて、本当に嬉しい限りでした。

これからもインドのイベントだけでなく国際文化なことをしていきたいと思います。そう思ってるなら、是非一緒にしましょう(^O^)/

「祈りの時間:オリッサの風に触れる」終了

昨日12日(金)、国際文化学科主催のイベント「祈りの時間:オリッサの風に触れる」が、昨日、盛会のうちに無事終了しました。ご来場いただいた皆様、ありがとうございました。

今回のこのイベントは、インドの、とくにアショカ王の時代、仏教文化をおおいに花開かせた東インド・オリッサの地の文化を、舞踊という実践を通じて知りたいという学生たちの自主的な動き/熱意から生み出されたものでした。古典舞踊「オリッシー」や西オリッサのフォークダンス「サムバルプリ」が披露されました。たった3ヶ月余しか稽古していないという事実を観客のだれも信じることができない、それほど洗練された、素晴らしい舞台でした。ジョティの実演やサリーやドーティの着付けも好評でした。そのフィナーレにおいて、多くの観客が踊りに参加してくれたことは、それだけ多くの人々に感動を与える舞台であった、ということを証しています。演者と観客が一体となった最高の空間を作ることに成功したわけです。この大仕事を成し遂げた学生たちは、おおいに自信を持ったことでしょう(ショバ先生の熱心な指導のおかげ、ということを忘れてはなりません)。そして、彼/彼女らの舞踊のレベルも確実にアップしたはずです。人前で演じるということが、なによりも最大の稽古なのですから。

足を踏む動き

12日のイベント「祈りの時間:オリッサの風に触れる」を間近に控え、学生たちの舞踊の稽古にもいっそう熱が入っている。

古典舞踊「オリッシー」の稽古を見て気づいたことがある。それはステップにおける「足」の使い方、より厳密にいえば「足の裏」の使い方である。

指導にあたっているショバ先生が足を地面に着いている時、その足の裏はべったりと地面に密着し、地面をしっかり捉えているように見えるのに対し、学生たちのそれは、なんだか少し浮いているように見える。

きわめて主観的かつ刹那的な観察からこのようなことを言うのは危険かもしれないが、おそらく、ショバ先生にとって、しっかりと足で地面を「踏みしめる」ことこそが、次の動きに速くスムーズに移行するための手段なのであろう。地面を強く蹴っていないことからも、そうであることが窺える。

地面を踏みしめない、換言すれば、足の裏を地面に密着させることなく(とりわけ踵を)浮かしていた方が、より速くスムーズに動けるように思える。その方が確かに速いかもしれないが、速く動こうとする心のありよう、先に先にと動こうとする心によって、一個一個の動作がおろそかになってしまい、全体的になんだかめりはりのない動きになってしまう危険性がそこにはある。

また、大地をしっかりと踏むことにより、踊り手の身体は天と地をを支える。宇宙全体を自身で受け入れる。そこに美しさが見て取れる。

踏みしめて動くことの意味を再確認する必要もあるし、それを可能にしているのは何かということを考えながら観察するのも面白い。12日のイベントがそれを見る人々に、さまざまな「発見」をもたらすにちがいない。